上有知村(近世)

江戸期~明治22年の村名。武儀郡のうち。尾張藩領。村高は「慶長郷牒」621石余,「正保郷帳」651石余(清泰寺領30石を含む),「天保郷帳」653石余。寛政年間の戸数537・人口2,025,馬73匹。金森氏在城以来交易繁盛の地で,3・8の日に六斎市が立ち,美濃紙・生糸の集散地で楮問屋が多かった。天明3年には尾張藩上有知代官所が置かれ,当地方の政治の中心地となった。また金森氏は城下の繁栄策として長良川に河港を開き番船40艘を物資の輸送に当たらせた。この河港を中心として上流は郡上【ぐじよう】郡下田【しもだ】,下流は岐阜を経て桑名まで舟運の便があった。明治後期まで,当地は岐阜県四大河港の1つとして栄えた。町方周辺部の地方は古市場・上条・段・下渡・口野々・樋ケ洞の6組に分かれる。村内には村鎮守八幡宮のほか熊野社・香椎宮などや,社のほか臨済宗清泰寺,曹洞宗善応寺,真宗の願念寺・教泉寺,浄土宗来昌寺などがある。清泰寺は寺領30石。明治4年岐阜県に所属。「町村略誌」によれば村高1,145石余,村の広さは東西30町・南北16町,田畑総反別559町歩余,戸数907・人口3,563,小学校は上有知小学校へ通学。物産は米1,785石余・大麦1,197石余・小麦169石余・雑穀425石余・繭2,260斤・生糸245斤・茶125斤・鮎6,300匹など。県庁へ5里,郡役所所在の地(町村略誌)。明治22年町制施行。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7344191 |