時多良荘(中世)

鎌倉期から見える荘国名美濃国石津郡のうち土岐多良・止岐多良・時多郎とも書く「吾妻鏡」建久元年4月18日条の「同国時多良山地頭玄蕃助蔵人仲経不従神事由事」とあるのが初見で,地頭の仲経が神事に従わないと領主の伊勢神宮から訴えられ,同日付の源頼朝下文により仏神役の勤仕を命令されているところが同書建久4年9月21日条によると,仲経は頼朝の外舅憲実法眼の子といわれ,旧好他に異なるによって「美濃国土岐多良庄」を賜っており同書の記載は前後やや矛盾しているようである(県史)また建久3年8月日付の伊勢大神宮神領注文に「止岐多良御厨内」と見え,「件御厨,雖為往古建立,近代依国妨,不勤供祭上分也」の注,「シキタラ」の読みが付されている(神宮雑書/鎌遺)下って,長禄3年12月日付の嶋田益忠庭中言上状案に「同国時多良郷」と見え高祖父以来の相伝の知行であったが守護の押領により退転したため,地頭職還補の御判給付を言上している(蜷川家文書)荘との関係は不詳次いで「天文日記」天文11年3月12日条に「就当番之儀,時多郎,于時明慶,如毎月樽持参之初度」と見え,織豊期と推定される美濃国総坊主衆支配定書にも「トキ 明覚」「タラ 直参衆」と記されており(西円寺文書),真宗門徒の多かった地という(上石津町史)江戸期は,時村と多良村とになる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7345425 |





