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古川郷(中世)


 室町期から見える郷名。飛騨国吉城【よしき】郡のうち。飛騨国司家姉小路氏の拠点。応永18年,姉小路尹綱が高野の古川城(蛤【はまぐり】城)に蜂起,醍醐寺理性院領広瀬郷の広瀬常登入道が呼応して小島【こじま】城に拠ったが,この時の事情を伝える年月日未詳の理性院雑掌請文に「同(応永)十八年古川郷退治之時,令同心,籠彼城(小島城)討死仕」とあり(醍醐寺文書),その後,文明10年5月13日付の小笠原左衛門佐宛足利義政御内書には「姉小路宰相(基綱)知行飛州小嶋・古河南郷」と見える(小笠原文書)。また,大永8年10月20日付の三塚富国名田預ケ状に「古河郷南本郷之内みそむかひ名田」,年未詳3月5日付の景氏ほか4名連署状に「古河郷南是重并快与公田」(蓮徳寺文書),年未詳10月27日付の尼子高久宛佐々木道通書状に「古川郷内快与名」(国立国会図書館所蔵文書)と見える。南本郷みそむかひ名田,快与名については未詳だが,南是重は平安末期仁安元年(推定)の飛騨国雑物進未注進状に見える是重の遺名であろうか。郷域については,年未詳11月30日の嘉念坊書状に「古河六郷」とあり(歓喜寺文書),江戸期には宇津江・高野・畦畑【うねはた】・是重【これしげ】・古川(町方)・北の6か村が古川郷と総称されていた。天正17年古川村に金森長近が増島城を築くまでは,高野地内の古川城が中心で,その城下には町場も形成されていたと伝え,天正14年9月飛騨の真宗末寺門徒が金森氏に差し出した起請文の連署4者の1人は「古河 上町 浄正」であった(聞名寺文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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