気賀下村(近世)

江戸期~明治8年の村名下気賀村ともいった明治4年からは下村と称した遠江【とおとうみ】国引佐【いなさ】郡のうち葭本【よしもと】川下流の右岸,浜名湖北東部の引佐細江北岸に位置する旗本気賀近藤氏領村高は,「旧高旧領」749石余江戸初期から気賀七ケ村のうちの1村として把握されるが,郷帳類では江戸後期になって1村として扱われる気賀地方における川高33石は,江戸初期気賀油田【けがあぶらでん】村の権益に属していたが,寛永年間増年貢のため5石ずつ当村と気賀伊目【けがいめ】村に譲渡された(油田史)両村は気賀浦の藻草を採取し,運上として毎年鐚2貫ずつ上納(気賀町役場旧蔵明治2年気賀村申送帳)なお「静岡県引佐郡誌」によれば,正徳6丙申年の石高として海川高33石のうち10石が七ケ村川高と見え,惣村七ケ村に広がっている寺院は臨済宗宝渚寺・同宗金竜寺・同宗真光寺本坂通(姫街道)沿いにある修理殿松は,永禄12年堀川城が徳川家康に攻略された時,城将である山村修理が切腹し,その霊を弔うために植えられたものと伝えるそのほか街道筋には,平石御休憩所があり,大名の通行などに近藤家の家臣が出向き接待したまた引佐峠には石畳が残る(静岡県歴史の道調査報告書―身延道・本坂通―)明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県を経て同年11月浜松県に所属明治2年の戸数262・人口1,192(木村文雅氏蔵村明細帳)明治8年気賀村に合併現在細江町大字気賀に通称地名下村として残る

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7349797 |