下田町(近世)

江戸期~明治22年の町名。賀茂郡のうち。古くは下田村と称した。慶安2年(一説には慶長年間)岡方村を分村(下田の栞)。はじめ戸田氏領,慶長6年幕府領となる。村高は,寛永年間までの年貢割付では760石余,うち田方150石余・畑方286石余・船役324石余(伊豆下田)。町高は,「元禄郷帳」596石余,「天保郷帳」280石余,「旧高旧領」289石余。検地は寛永年間(下田年中行事)。助郷は東海道三島宿・蒲原宿に出役。地内は紺屋町・殿小路町・長屋町・町棚(町店)町・連尺(連雀町)・二丁目町・三丁目町・地之町・伊勢町・坂下町・七軒町・新田町・須崎町・大工町・同心町・中原町・原町・弥治川町に分かれる。このうち殿小路・紺屋・町棚(町店)・連尺(連雀)・長屋などの町並みは江戸初期の戸田氏領時代につくられた。幕府支配になると伊豆の諸鉱山(土肥【とい】・縄地・湯ケ島など)の開発が進み,とりわけ縄地鉱山(現河津町)の繁栄が著しく,その物資の集散や人の出入りに使われた下田港がにぎわった。慶長末年頃には下田の町並みはほぼ形成され,家数1,000・人数5,000を数えた。江戸城築造に関し,江戸~下田間を往復する石積船は3,000に達したという(伊豆下田)。元和2年須崎の岬に仮番所が置かれたが,寛永13年大浦に移し船改番所となり往来する船を検問した。天正18年~元和年間前後の屋敷地子高は70石,寛永4年以降272石,反別13町4反余,納米138石余の定納となった。諸浮役は茶役・塩役・煙草役・苫役・棒手役・いさば役・船大工役など(同前)。正保2年武ガ浜の波よけが完成。寛文2年大浦切通しを開き,城下町・七軒町を形成。同8年には中島口から新田町・殿小路・長屋町・中原町・原町・大工町を経て坂下橋の脇まで水道を完成(ただし天和3年撤去)。享保6年御番所の浦賀移転に伴い一転して下田は不況となり地震による津波や火災なども影響し飢人2,151という。万治3年には船150艘が転覆し(徳川実紀),元禄16年の津波では死者27・流失家屋332・破船痛船81。宝永4年の津波では死者11・流失家屋857・半焼55・破船痛船93。享保19年にも津波の被害があったという。火災は宝暦6年岡方村付近全焼300戸余,安永5年海善寺付近全焼200戸余,文化元年二丁目付近420戸余,文化10年伊勢町付近240戸余,文化13年新田方面103戸余,同年連尺町付近114戸余などが記録されている(新南豆風土誌)。下田の町政は庄屋(享保年間以降名主)・長人(享保年間以降年寄)・町頭・組頭・漁船頭・書役・問屋年寄などで構成される町会所によって運営されていた。宝暦10年の明細帳によれば家数805・人数2,895,医師8・山伏2・家大工10・船大工15・鍛冶10・紺屋2・木挽3・桶屋5・鍼医2・座頭3(下田年中行事)。寛政5年老中松平定信一行400名が相豆沿岸を巡検,文化5年には浦賀奉行一行が下田沿岸を検分して狼煙崎と柿崎字州去崎に砲台を築こうと計画したが中止。天保13年から3年間下田奉行所が復活する。天保4年米価高騰のため商家4軒を打毀す事件が起きている。嘉永2年4月には英船が,同5年には露艦が入港。安政元年3月日米和親条約の締結に伴い下田は開港場となり,ペリー艦隊が入港し三度下田奉行も置かれた。吉田松陰が渡米を企て失敗したり,高馬【たこうま】の反射炉が外国人にのぞかれ工事中止されたのもこの時期である。同年10月にはプチャーチン提督が日露条約締結を求めたが,折からの地震による津波でその乗艦ディアナ号は大破した。この津波の被害は死者122・流失家屋841(伊勢町旧記/下田の歩みと下田の文化財)。開港場となった下田は薪水食糧のみならず欠乏所貿易も行った。安政3年7月ハリスが米国総領事として滞在。しかし安政6年の横浜開港とともに下田港は廃止となる。慶応4年の家数人別牛馬村限帳による家数884・人数3,829。朱印地寺1(僧3)・寺9・朱印地社1・社2・修験2(江川文庫所収文書)。明治元年韮山県,同4年足柄県を経て,同9年静岡県に所属。明治2年稲梓【いなずさ】・稲生沢両村の農民が岡方村名主の出した金札回文の件で下田へ押しかけ打毀し事件が起きている。翌3年神子元灯台点灯。同5年郡下最初の郵便取扱所開設。翌6年泰平寺に新民学校開校。明治8年岡方村を合併。同10年警察署設置。同12年郡制が施行され,宝福寺内に郡役所が置かれる。同16年コレラにより16人死亡。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7350498 |