中島郷(中世)

南北朝期から見える郷名。伊豆国田方郡のうち。畠山国が当郷地頭職を知行したが,応安3年9月2日「伊豆国中嶋郷地頭職半分」が天下安全祈願と畠山家国および鎌倉公方足利基氏に追放された元関東執事畠山国清の菩提を弔うために吉祥寺に寄進された。また,翌年7月2日にはその寄進を認めた文書(足利義詮御判物教書か)が紛失したため,吉祥寺の申請によって再度,執事斯波義将奉書が出されている(北条寺文書/県史料1)。下って,戦国期には小田原北条氏の「役帳」に文珠寺分として「一貫五百文 中島ニ伏」,また御家門方畊月斎の役高として「五十五貫二百八文 豆州 中島半分」とある。天正18年3月には豊臣秀吉が小田原攻略の途次,伊豆に侵入したが,翌4月に当郷に軍勢狼藉停止の掟書が出されている(新井文書/県史料1)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7351681 |