仁藤村(近世)

江戸期~明治22年の村名。佐野郡のうち。はじめ山内氏領,のち掛川藩領。慶長6年の宿駅制の成立による東海道掛川宿の整備に伴い,一部が仁藤町と呼ばれ掛川宿十三町の1つとなる。このため両者を併せて仁藤町村と呼ぶこともある。村高は,文禄2年の検地では26石余(掛川市誌),「元禄高帳」23石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに41石余。「掛川誌稿」によれば戸数145・人口552(仁藤町分を含む)。助郷は掛川宿に出役。農間余業に女は木綿・葛布などを織った。鎮守は神明宮。掛川宿十三町のうち仁藤町・新町・木町・塩町・肴町の5町も同社を祀った。この5町はもと当村内であったという(掛川誌稿)。ほかに神社は八幡宮。寺院は曹洞宗真如寺・同宗神宮寺・法華宗正願寺,明和9年瓦町より移った同宗宗林寺。仁藤町は慶長9年西町・中町とともに掛川宿の伝馬町に指定され,町内の鈴木・大場両家は代々同宿の問屋を勤めた。町内に高札場があり,ここを札之辻といった。また,町内の笠屋町には菅を栽培する菅田があり,菅笠を作ったという。鎮守は仁藤村神明宮。寺院は浄土宗天然寺。天然寺は明治12~14年まで掛川区裁判所となった。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治22年仁藤村は掛川町の大字となり,仁藤町は掛川町大字掛川の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7352107 |





