榛原郡

平安末期~鎌倉初期にかけて当郡内にはいくつかの大規模荘園が成立した。郡の最南部には蓮華王院領白羽荘(現御前崎町),ついで同院領相良荘(現相良町),崇徳院領勝田【かつまた】荘(榛原町),大井川下流右岸には八条院領初倉荘(現島田市),その北には待賢門院領質侶【しとろ】荘(現金谷町)が位置し,北部の山間地域は古代の山香【やまか】郡域に成立した長講堂領山香荘東手のなかに包含されていた。白羽荘は古代の官牧から転化し,相良荘・質侶荘も中世前期には牧とも呼ばれていることは,当郡の開発がなお進展せず,牛馬の牧野の適地が多かったことを示しているが,これら諸荘園は一般に受領として当国に下向した遠江国守が公権を用いて未開の郡内を大規模に分割し,皇室(院)に寄進した結果成立したものと考えられる。郡域は,東限についてはほぼ古代と同じで,駿遠国境,すなわち大井川であった。しかし,南北朝期に南禅寺領として安堵され,近世には駿河国志太【しだ】郡に入る初倉荘内4か郷(現大井川町)が「大井川以東」と記され,中世の大井川下流の本流は現在と同一とみられるにもかかわらず,中世史料ではこの部分も「遠江国初倉荘」としている(南禅寺文書)。従って,中世の榛原郡域は大井川下流東側の一部も含まれていたのであろう。郡・国境が現在のようになるのは,あるいは,永禄11年の徳川・武田両氏による大井川を境とする駿・遠両国分割工作の頃ではあるまいか。また,西の境については,史料がないが,中世には御前崎(現相良町・御前崎町)も含み,近世以降と同じであったのではあるまいか。とはいえ,荘園によって郡が分断されたため,古代とは異なり,郡の行政単位としての機能はほとんど消滅していたとみられる。宿駅については,中世の東海道が古代よりも北側を通ったため,初倉駅にかわって菊川(現金谷町内)・金谷(同前)・鎌塚(現島田市内)が栄えた。古代末期に生まれた郡内の有力在地領主(武士)として相良氏と勝田(勝間田)氏が知られる。相良氏は遠江守藤原為憲の5世の孫周頼の時,相良荘に居住して荘司となり,頼景とその子長瀬の代には源頼朝に従って御家人となったが,建久4年には頼景,元久2年には長頼が各々肥後国に所領を得て下ったため,当郡内における勢力は後退した。勝間田氏は勝田荘の開発領主といわれ,保元の乱には在京して後白河院・源義朝側にあって働いたという。鎌倉初期には源頼朝の下で御家人として威を振るい,南北朝期には今川氏の下で活躍,室町期には横地氏・鶴見氏などと並ぶ東遠地方の有力国人に成長した。当郡域は駿・遠両国の堺に位置するため,室町期~戦国期にはしばしば紛争の舞台となった。応永年間,遠江国守護が今川氏から斯波氏に替わった後も,勝間田氏は郡内にあって今川氏に与同していたが,応仁の乱を契機として西軍(山名方)の斯波氏に傾き,横地・鶴見両氏と連合して東軍(細川方)の今川に対した。この間,鶴見氏は本拠を掛川から当郡内の志戸呂城(横岡城,現金谷町内)に移している。文明8年2月,今川義忠は志戸呂城を攻め,さらに勝間田城(現榛原町内)を陥したが,これ以後,勝間田氏は衰亡したという(今川記/大日料8-8)。永正年間には今川氏親が遠江国を領国化するに至ったが,永禄3年今川義元が尾張の桶狭間に敗死するとその勢力も衰えた。永禄11年12月,武田信玄が南進し駿河国を攻略すると,同時にかねて密約のあった徳川家康も遠江国に侵入し,駿府を追われた今川氏真の籠る掛川城(現掛川市)を包囲した。家康はこの年末から翌年にかけて当郡内勝田(榛原町)・金谷・菊川・深谷(以上金谷町)・河根郷(中川根町)などを,帰順した部将等に安堵し郡内の鎮静を図ったが(譜牒余録・朝比奈文書/家康文書,天野文書/県史料4),一方,当郡北部の山間地域たる上長尾・久野脇・地名(以上中川根町)などの地は今川氏真が安堵して対抗した(奥山文書/県史料4,鈴木文書・増善寺文書/県史料3)。元亀2年武田氏が大井川を越えて遠江国を侵すと,郡内でも徳川・武田氏の抗争が続いたが,翌3年12月,遠江の完全掌握を企てた信玄が三方ケ原の合戦に家康を破ったことによって一時小康状態となった。しかし,信玄没後の天正3年3月武田勝頼が長篠の戦いに敗北すると家康が遠江に入り,郡内でも諏訪原城(現金屋町内)が徳川方に落ちている。勝頼は小山城(現吉田町内)・相良城(現相良町内)を拠点として,当郡内で両者が対峙した。天正10年3月,武田勝頼敗死にともない,これら諸城も徳川方の手中に入り郡域は家康の制圧するところとなった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7352216 |