摩訶耶村(近世)

江戸期~明治22年の村名。遠江【とおとうみ】国敷知【ふち】郡のうち。幕府領,元和5年井伊谷藩領を経て,寛永元年からは旗本大谷近藤氏領となる。村高は,「元禄高帳」188石余,「天保郷帳」216石余,「旧高旧領」219石余(うち摩詞耶寺領70石)。当地は釣橋川中流の沃地に位置するため米麦を主に産す。「遠淡海地志」によれば戸数70で,産物に納豆・蜜柑・青苔・莚がある。寛永初年より延宝末年まで村の中央に旗本近藤氏の知行扱役所が設置され,行政の中心地としてにぎわった。助郷は本坂通三ケ日【みつかび】宿の定助郷,のち東海道浜松宿の加助郷も勤めた。当村出身の幕末の漢方医阿部三圭は,長崎帰りの蘭方医としても令名があり,三河国吉田藩の藩医に抜てきされた(三ケ日町史上)。寺社には真言宗摩訶耶寺,氏神の津島神社・熊野神社がある。摩訶耶寺は将軍家へ納豆を献上していた(風土記伝)。また同寺は寺百姓10軒を有したという。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治22年西浜名村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7352969 |