井戸田郷(中世)

南北朝期~戦国期に見える郷名。尾張国愛知郡のうち。「平家物語」巻1・2や「源平盛衰記」巻12には「井戸田」の地名が,藤原師高や藤原頼長の子妙音院太政大臣師長の流刑地として見えており,現在の瑞穂区妙音通はこれに由来するという。文書上の初見は,貞和3年8月29日付祇園社感神院別当得分注進状に「井戸田保 一向有名無実歟」とあるもので,かつて京都祇園社の便補の保であったが,すでに退転していたことが知られる(祇園社記続録/大日料6‐11)。次いで,貞治4年8月5日には足利義詮が母登子の菩提を弔うために「尾張国井戸田郷地頭職」を等持院内登真院塔頭に寄進した(等持院常住記録/大日料6‐27)。応安4年から永徳4年に至る津賀田神社蔵大般若経奥書によると,巻372奥書に「尾州井戸田庄若宮」,巻571奥書に「尾州愛知郡熱田宮東井戸田郷」,巻128奥書に「尾州愛知郡井戸田郷観音禅寺」などと見えている(日本古写経現存目録)。永享3年7月には尾張国山田荘百姓の逃散に際して,同荘百姓を「柏木 市辺 井戸田」に入れぬよう等持院出官が命じられた(御前落居奉書/室町幕府引付史料集成上)。長享元年には伊勢貞遠が「等持院領尾張国柏井上下条,同国井戸田郷代官職」を所望したところ,等持院では俗人は代官にしないとして拒否している(蔭涼軒日録長享元年12月11日条)。その後,当地は市部・柏井とともに禁裏御料所でもあり,天皇の女官勾当内侍(長橋局)の管領するところで,等持院からは銭5,000疋が宰相典侍に送られていたが,15世紀の末頃,幕府は当地を禁裏の直務とした(実隆公記永正2年10月条紙背文書)。当地と市部の代官職は年80貫文で請け負われていたが,当時の代官名越(今川国氏か)が没落した後,京進物は途絶え,三条西実隆は勾当内侍東坊城松子とはかって現地の領主水野氏の協力を求めることにしたという(実隆公記永正2年10月22日条,同年10月23日条紙背文書)。領域については,「井戸田庄薬師寺」(県史料叢刊14)と銘された印塔を伝える竜泉寺と津賀田神社の所在地である現在の瑞穂区井戸田町・津賀田町一帯と推定できる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7354582 |