100辞書・辞典一括検索

JLogos

22

尾張国


永禄年間織田信長がほぼ尾張一円を勢力下におき,同10年美濃の岐阜城を本拠として東西の経略を進めていたが,天正4年安土城に移って長男信忠に尾張・美濃両国を与えた。しかし,同10年本能寺の変に信長は斃れ,信忠も自刃,その後尾張は信長の次男信雄の領するところとなった。同12年小牧・長久手の戦で信雄・徳川家康連合軍は羽柴秀吉と戦い,講和後国内に秀吉の占領地が残ってはいたが,信雄が清須城にあって尾張を支配した。同14年木曽川の氾濫による河道変更もあって,葉栗・中島・海西3郡のうち木曽川以西の部分は美濃国に編入されることとなり,美濃国羽栗・中島・海西の3郡が成立した。同18年小田原攻撃後,秀吉は転封に応じない信雄を下野国烏山へ配流。関東に対する備えとして甥の羽柴秀次を清須城主に封じ,黒田城に一柳直盛を置いた。秀次は文禄元年・同2年に尾張一国総検地を実施し,検地の総高は57万1,737石余であったとされている(尾張藩石高考)。文禄2年には秀吉の指示により木曽川築堤工事,荒蕪地開墾などを行った。同4年秀次は謀反の廉により切腹し,福島正則が清須城主24万石に,石川貞清が犬山城主1万2,000石に封ぜられたが,慶長5年関ケ原の戦後,徳川家康は福島正則を安芸国広島に,一柳直盛を伊勢国神戸【かんべ】に転封,また西軍に加わった石川貞清を除封。家康の四男松平忠吉を清須城主52万石(一説に57万1,737石余)に封じて尾張の大部分を領有させ,忠吉の重臣小笠原吉次を犬山城主2万7,000石(一説に3万石・3万5,000石)に封じた。同12年忠吉は病死したが継嗣がなく絶家,家康は九男徳川義利(義直)を甲斐国府中から移して清須城主とし,尾張一円を領有せしめた。また,犬山の小笠原吉次を下総佐倉に移し,義直の付家老(伝相)平岩親吉に犬山城を与えて9万3,000石(一説に12万3,000石)を領せしめ,義直幼少のため清須城で藩政を代行させたが,家康の名で年貢皆済状が出されるなど家康直轄地の色合が濃かった。翌13年伊奈備前守忠次を奉行とする検地(備前検)を実施,尾張8郡の総高は47万2,344石余と定まる。同16年平岩親吉の死後は成瀬正成が犬山に入り,竹腰正信とともに家老として藩政を代行した。清須は地理的に水害の危険が大きく,また上方に対する備えを強化する必要から,同15年名古屋城築城工事を開始,清須城下の武家屋敷・町家・寺社を名古屋に移転させ(清須越),元和2年には義直が駿府から名古屋に入り,以後幕末に至るまで名古屋は尾張徳川家16代の城下町として繁栄した。「寛文覚書」によれば,尾張8郡(愛知郡・春日井郡・中島郡・葉栗郡・丹羽郡・海東郡・海西郡・知多郡)の村数915(うち本村863・新村1・新田38・寺社領11・島2),高は,本田の元高48万3,252石余・概高63万1,528石余,新田の元高2万9,682石余・概高3万3,570石余・高4万5,229石余,寺社領の領高外元高7,037石余・領高内元高3,995石余・高100石,船頭給・車田・伝馬給は領高外144石余・領高内52石余,反別は,本田が田2万5,275町余・畑1万6,309町余,新田が田3,947町余・畑3,492町余,寺社領は領高外田304町余・畑325町余,領高内本田の田91町余・畑57町余,新田の田20町余・畑38町余,見取場は田114町余・畑310町余・田畑23町余,給人自分起は田633町余・畑454町余・田畑15町余,船頭給・車田・伝馬給は領高外田3町余・畑6町余・田畑3町余,新田の畑11町余,家数6万5,827・人数37万5,918,馬1万5,760・牛1,986。「天保郷帳」によれば,村数1,008・高54万5,875石余,うち愛知郡の村数122・高8万9,511石余,春日井郡の村数189・高11万1,764石余,丹羽郡の村数118・高5万9,541石余,葉栗郡の村数41・高1万3,905石余,中島郡の村数167・高8万2,252石余,海東郡の村数138・高8万8,891石余,海西郡の村数91・高2万8,835石余,知多郡の村数142・高7万1,172石余。交通路としては,幕府道中奉行支配の東海道・美濃路があり,東海道は三河池鯉鮒【ちりゆう】から鳴海宿,熱田の宮宿を経,船で伊勢桑名の宿へ渡る海路と,岩塚・万場を通って佐屋宿から桑名へぬける佐屋路とに分かれていた。美濃路は中山道と名古屋を結ぶ街道で,宮宿・名古屋宿・清洲宿・稲葉宿・萩原宿・起【おこし】宿から美濃国墨俣宿へと続いていた。このほかに中山道に至る道には上街道(木曽街道・名古屋往還)や下街道(善光寺街道)があった。上街道は尾張藩の「御自分往還」として整備されたが,下街道の方が距離が短かったため公用以外の利用は少なかったという。また,幕府の巡見使が通った巡見街道があり,中島郡一宮村から海東郡佐屋村までの区間であったが,特定の街道を指すものではなかった。産業では,綿・藍・菜種などの商品作物生産が盛んで,これらを原料とした綿織物・染色・絞油などの加工業も発達した。殊に知多郡の成岩【ならわ】村・半田村を中心とする白木綿・晒木綿(知多木綿・知多晒),中島郡起村・一宮村を中心とする縞木綿(尾西織物),特に京西陣の技術を取り入れた桟留縞や菅大臣縞,関東結城から伝えられ絹糸を混ぜた結城縞などが有名であり,木綿絞染の知多郡の有松絞もよく知られている。このほか春日井郡瀬戸村・赤津村などの陶磁器生産も尾張藩が奨励して大いに振興し,半田地方の醸造業もまた名高いものであった。明治元年には成瀬・竹腰両氏の所領が独立し,当国内には新たに犬山藩が成立。同4年7月廃藩置県により当国は名古屋・犬山の2県となる。同年11月犬山県は名古屋県に合併され,また同5年1月知多郡を額田【ぬかた】県(三河)に移管。同年4月名古屋県は愛知県と改称,さらに同年11月額田県を合併して,現在の愛知県が成立した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7355763