加茂郡

天正18年徳川家康の関東移封後,西三河は岡崎城に入った田中吉政が領有したが,尾張と国境を接する加茂郡西部の地まで領有したかどうか定かではない。村数と石高は,「寛永高附」に334か村・5万948石余,「元禄郷帳」に347か村・6万4,522石余,「天保郷帳」に347か村・6万6,953石余,「旧高旧領」では352か村・6万7,538石余。「天保郷帳」に見える村名は,挙母町・今村・山室村・下市場村・土橋村・下林村・長興寺村・金谷村・宮口村・本地村・南荕生【みなみあざぶ】村・北荕生村・打越村・福田原村・一色村・三好村・明知村・黒笹村・福谷【うきがい】村・田籾村・大畑村・八草村・広見村・篠原【ささばら】村・上伊保村・殿貝津村・伊保堂村・下伊保村・乙部村・本徳村・猿投【さなげ】村・加納村・舞木村・亀首村・四郷村・花本村・梅ケ坪村・荒井村・越戸村・御船村・枝下【しだれ】村・中山村・深見村・迫【はさま】村・田茂平村・西広瀬村・冨田村・藤沢村・押沢村・松嶺村・飯野村・御作村・一色村・木瀬村・石飛村・渡合村・折平村・北曽木村・石畳村・市野々村・上川口村・下川口村・百月【どうづき】村・李村・市場村・篠平村・大坂村・大草村・川下村・日面【ひおも】村・簗平村・大野村・大倉村・永太郎村・仁木村・遊屋村・喜佐平村・萩平村・沢田村・手洗村・三箇村・白川村・大岩村・大平村・荷掛村・寺平村・乙ケ林【おかばやし】村・三久保村・北村・大洞村・前洞村・田代村・川見村・松名村・平畑村・苅萱【かるかや】村・宮代村・柏ケ洞村・雑鋪村・大ケ蔵連【おおがぞれ】村・一ノ野村・岩下村・榑俣【くれまた】村・平岩村・小渡村・有間【あんま】村・篠戸村・高能村・大坪村・菊田村・沢尻村・白石村・明賀【あすが】村・時瀬村・万町【まんじよう】村・九沢村・月畑村・小沢村・鳥巣村・源重村・大垣内村・太田村・加塩村・押手村・余平村・閑羅瀬【しずらせ】村・小滝野村・伯母沢村・下伊熊村・二井寺村・上伊熊村・岡村・槙本村・日下部村・高蔵村・田津原村・牛地村・冨永村・坪崎村・連谷村・小畑村・明川村・大多賀村・五反田村・平沢村・惣田村・小田村・細田村・千田村・神垣内村・上八木村・丹波村・玉ケ瀬村・大井村・永野村・菅生【すごう】村・須田村・婦香利村・林間【りんま】村・大地沢村・安代村・上桑村・中桑村・下桑村・菅田輪村・久木村・小手沢村・西樫尾村・中山村・越田和村・源田村・広見村・大蔵村・切山村・能見村・万根村・小町村・御蔵村・市平村・実栗村・栃ノ沢村・大塚村・中立村・摺村・萩平村・渡合村・池島村・月原【わちばら】村・大河原村・東広瀬村・国付村・力石村・山路村・小嶺村・葛村・椿村・中金村・小白見村・野口村・中切村・室村・田振村・川端村・井ノ口村・塩沢村・足助村・寺沢村・近岡村・大島村・則定村・上鷹見【かみたきみ】村・山中村・千鳥村・成合村・寺谷下村・下鷹見村・手呂村・平井村・寺部村・市木村・岩滝村・池田村・小呂村・矢並村・酒呑【しやちのみ】村・重田和村・雰山村・白瀬村・西野村・北古瀬間村・南古瀬間村・上野山村・渋川【そぶかわ】村・森村・御立村・飛泉【ひずみ】村・六木村・二本木村・赤原村・牛野村・山室村・大見村・渡合村・岩倉村・中垣内村・中村・九久平村・鍋田村・大給村・桂野村・川向村・下河内村・歌石村・曲村・椿木村・大田村・林添【はやしぞれ】村・滝脇村・大沼村・遊平村・切二木村・七売【なのうり】村・茅原村・大津村・二口村・羽明【はあす】村・松平郷・長嶺村・花薗村・大沼村・柵ノ沢村・日明【ひあかり】村・岩谷村・下平村・四ツ松村・戸中村・山中村・栃本村・篠平村・真垣内村・正作村・宮口村・杉木村・下屋鋪村・㮛立【そだめ】村・大楠村・所石村・仁王村・上脇村・上佐切村・下佐切村・国閑【かいご】村・平折【ひろり】村・桑原田村・上国谷村・中国谷村・下国谷村・小田村・大野村・沢之堂村・籠林村・岩神村・安実京【あじきよう】村・足口村・今朝平村・中之御所村・千野村・漆畑村・室平村・山蕨村・椿立村・桑田和村・市ケ瀬村・足原村・大蔵連【おおぞうれん】村・川面村・奴田沢【ぬたざわ】村・綾渡村・山中立村・有洞【うとう】村・浅谷【あざかい】村・御内蔵連村・阿蔵村・梨野村・宇連野村・高野村・野原村・保殿村・吉平村・大林村・立岩村・羽布村・大見村・葛沢村・栃立村・黒岩村・大桑村・神殿【かんどの】村・荻島村・芦原子【あわらご】村・平瀬村・梶村・蘭【あららぎ】村・小松野村・和合村・平沢村・黒坂村。寛永18年当郡のうち6か村が額田郡に,また名倉川と振草川流域の村々が設楽郡に編入された。当郡の所領構成は,「寛永高附」によれば,寺社領950石余・下総栗原藩領1万21石余・幕府領4,649石余・伊保藩領1万石・尾張藩領(寺部渡辺半蔵給知)5,000石・岡崎藩領4,724石余・挙母藩領7,001石余・刈谷藩領2,769石余・旗本滝脇松平氏知行503石余・旗本則定鈴木氏知行688石余・旗本渡合鈴木氏知行199石余・旗本九久平鈴木氏知行500石・旗本酒呑鈴木氏知行920石余・旗本原田半兵衛知行200石余・旗本(交替寄合)松平太郎左衛門知行377石・旗本梶氏知行137石余・旗本下河内中根氏知行121石余・旗本原田藤左衛門知行364石余・旗本鈴木九左衛門知行200石余・奥殿藩領1,916石余となっている。これらの支配の変遷を領主ごとに追ってみると,まず当郡内を居所とした藩には挙母藩・大給藩・足助藩・伊保藩があった。挙母藩は,慶長9年三宅氏が1万石で入封して立藩され,元和5年居所を伊勢国亀山に移すが,寛永13年再び挙母に復帰した。しかし,寛文4年渥美【あつみ】郡田原に移封して廃藩となった。天和元年本多氏が挙母に1万石で入封して再び立藩され,寛延2年内藤氏2万石に代わって明治維新に至る。天明8年の領知目録によれば,当郡内の所領は25か村・高1万2,217石余(豊田市史)。旗本大給松平氏は寛永4年旧地の当郡大給村はじめ3,000石の知行を与えられ,同12年上総国で4,000石を加増されたが,同16年これが当郡内に移されて当郡内で7,000石を知行した。正保3年松平乗次の時に足助村をはじめ39か村・3,000石を兄乗真に分知し,4,000石の旗本となるが,天和2年丹波国で2,000石,貞享元年摂津・河内両国で1万石を加増され,1万6,000石の大名となり,居所を大給に置いた。のち宝永年間頃に陣屋を額田郡奥殿に移したため奥殿藩と改称し,さらに幕末・維新期には信濃田野口藩・竜岡藩と改称している。享保元年の当郡内の奥殿藩領は33か村・2,648石余(岡崎市史)。足助藩は,天和元年当郡に5,000石の知行を与えられた旗本本多忠周が,翌2年丹波国で2,000石,さらに同3年当郡と上総国で3,000石を加増され,足助を居所として大名となったものだが,元禄2年加増分の3,000石を削られ,再び7,000石の旗本に戻った。伊保藩は,慶長5年丹羽氏が1万石として上伊保村に陣屋を置いて立藩され,寛永15年同氏が移封すると一時廃藩となったが,天和元年本多忠晴が1万石で入封して再立藩,宝永7年遠江国相良に移封して廃藩となった。他郡に居所を置く藩については,まず岡崎藩は寛永2年の本多氏宛領知目録写では,郡内37か村・4,432石余(岡崎市史),「寛文朱印留」では水野氏は38か村・4,260石余。享保10年の1万石加増村々覚では15か村が増加しているが,天明8年本多氏になると郡内の岡崎藩領はまったくなくなってしまう(同前)。西大平藩は,安政7年の朱印状に郡内5か村とある(同前)。吉田藩領(明治2年豊橋藩と改称)は,宝永2年に郡内47か村・5,729石余,寛延4年の朱印状でも村数に変化はなく,高が5,761石とわずかに増加。その後明和7年郡内5か村と宝飯郡2か村・高1,153石余が増加,享和3年前記5か村を上知されたが基本的には大きな変化はなく幕末に至った(豊橋市史)。また,成瀬隼人正正成は慶長5年当郡内に足助村など1万石を加増されて3万石余となり,同16年尾張藩付家老として尾張に赴任し,元和2年犬山城主となるが,同年次男成瀬伊豆守之成に三河・下総国の1万4,000石を分与して下総栗原藩を立藩させ,当郡内の足助村などを領知させた。しかし,成瀬伊豆守家は寛永15年に絶家となった。また,同じく尾張藩士渡辺半蔵は,慶長18年当郡内に5,000石を加増され,寺部に陣屋を置いた。渡辺氏は尾張藩からも5,000石の知行を与えられ,すでに有していた近江・武蔵両国の知行を合わせ1万4,000石を領した。寺部渡辺氏は将軍家と尾張藩双方から知行を与えられており,「寛永高附」では渡辺忠右衛門領と見えるが,「元禄郷帳」では尾張殿領と記されている。旗本の支配については,郡内に陣屋を置いた主なものをあげると,則定鈴木氏は,則定村に陣屋を置き,幕末まで続く。渡合鈴木氏は,渡合村に陣屋を置き,享保5年減知され100石100俵となり,渡合村と摺村の一部を知行し幕末に至る。酒呑鈴木氏は,酒呑村に陣屋を持ち,寛永10年には920石,同12年加増され1,120石を持ったが,元禄年間頃絶家となり,分家の鈴木氏が300石で幕末まで続く(足助町誌)。九久平鈴木氏は,九久平村に陣屋を置き郡内5か村・500石を持ち,幕末まで続く。原田藤左衛門家は,郡内2か村・450石余を有したが,正保元年絶家。原田半兵衛家は,大蔵村に陣屋をもち,200石を5か村のうちに有した。松平太郎左衛門は,交替寄合の格式を持ち,松平郷・林添村に440石を持ち,「御称号之旧地」を維持する役割があった。梶氏は,5か村200石と50俵を持ち幕末まで続く。滝脇松平氏は,郡内・額田郡で600石を持ち幕末まで続く。本地松平氏は,本地村に陣屋を置き,郡内3か村1,000石を持ち,万治2年弟(千足松平氏)に300石を分知,千足村に陣屋を置き,ともに維新まで続く。大島石川氏は,大島村に陣屋を持ち,郡内・額田郡に7,000石を有し幕末まで続く。このほか,石川総昌氏・一色氏・高極氏・金田氏・沼間氏・松平忠成氏・日向氏・巨勢氏など,当郡に知行地を持つ旗本は数多い。このように各藩領の飛地・幕府領・旗本知行,寺社領が入り組んでおり,領主の交代も激しかった。中心となったのは挙母村と足助村で,挙母村は挙母藩の城下町として8か町の町並みを形成し,足助村は伊那街道の宿場町として4か町の町並みを形成し繁栄した。宝暦2年,挙母藩の領民が年貢増徴と築城夫役への不満から代表が江戸藩邸へ出訴した芋八騒動が起き,飯野村八兵衛など6名が打首に処せられたという。文化11年,足助本多家知行の23か村の百姓が陣屋門前へ訴えるという強訴事件が起きている。天保7年には約240か村と挙母7か町,人数1万数千人が参加して,三河最大の百姓一揆といわれる加茂一揆が起き,郡内各地で打毀を行った。九久平村の仙吉,下河内村の辰蔵などが獄門に処せられている。天保15年には,足助村の会所が徴収していた荷之口銭(荷物に対する通行料)の廃止をめぐって,足助村と近在100か村余の間で荷之口論争が起き,最後まで争った大島石川氏領の21か村は江戸へ出訴し,弘化3年幕府の裁許が下りるまで続いた。明治4年額田県に属し,同5年愛知県に所属。同11年の郡区町村編制法により東加茂郡と西加茂郡に分かれた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7356267 |





