桜井村(近世)

江戸期~明治22年の村名。三河国碧海郡のうち。はじめ幕府領,慶長19年桜井白山社(現桜井神社)領が成立し,これは明治維新まで続く。元和2年西尾藩主本多氏が次男忠相を分家に出し旗本本多美作守家が成立すると一部が同家知行地となり,また同9年同様に三男俊昌が旗本になり本多主馬介として当村の一部が同氏の知行地となり,元禄10年には主馬介知行地のうちから300石を分けて俊昌次男忠顕に与えられ,本多民部少輔知行地ができる。以後明治期まで本多3家の知行地は続く(なお,本多美作守家は元治元年大名に列せられ西端藩となる)。元和9年吉良上野介義定の次男が分知され旗本荒川右馬介となり,当村の一部をその知行地とするが,貞享2年幕府領となり,元禄11年一部が旗本京極内匠の知行地となり,宝永6年には再び幕府領にもどる。この幕府領分は正徳5年一部が旗本数原通玄知行,享保5年他の一部が旗本筧播磨守知行となり,残りの部分は同10年には岡崎藩領となった。そして,この三者は明和2年には東町村として分村した。なお,この東町村の両旗本知行地は明治期まで続いたが,岡崎藩領分は宝暦12年幕府領となり,天明2年一部が旗本巨勢六左衛門知行,同5年残部が旗本諏訪若狭守知行地となり,明治期を迎えた。ただし,東町村は「天保郷帳」「旧高旧領」にもその村名が記載されず,公的には当村のうちに含まれていた。村高は,「寛永高附」1,404石余(白山社領50石・本多主馬介知行1,000石・本多美作守知行109石余・荒川右馬介知行245石余),「元禄郷帳」1,427石余(幕府領,相模甘縄藩領,本多修理・本多主馬・本多民部少輔・京極内匠知行,白山権現社領),「天保郷帳」2,143石余,「旧高旧領」も2,143石余(西端藩領142石余,旗本諏訪勇一郎知行107石余,筧帯刀知行136石余,巨勢大隅知行91石余,本多岩次郎知行1,445石余,数原通玄知行10石,桜井社領50石)。当村内の印内・中開道・下谷・城向・西町・東町と隣村の堀内村を合わせて桜井七か村と総称することもあった。桜井神社祭礼帳によると,同社(桜井白山社・桜井権現社ともいった)の9月16日の祭礼は桜井七か村が輪番で勤め,近郷20か村余が飾り馬を仕立てて参加する大祭だった。この時奉納される式部流棒の手,祭囃子「チャラボコ」は市無形民俗文化財。寺院は浄土宗菩提寺と真宗大谷派円光寺があり,円光寺はかつては堀を巡らす城郭伽藍だったことが確認されている。明治11年の戸数281・人口1,379,寺院3,学校1(共武政表)。学校は円光寺茶所を使った桜井学校のことで,同12年字桜林に校舎を建て移転。大浜から足助【あすけ】・信州飯田へ通じる塩の道の1つである岡崎街道が通っていた。明治9年郵便御用取扱所,同11年警察署桜井交番所が置かれ,周辺地域の中心的役割を果たす。同22年桜井村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7357366 |





