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重原荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。三河国碧海郡のうち。承久3年7月12日の関東下知状で,「参河国重原庄地頭職」が二階堂元行に宛行われており,承久没収地である(二階堂文書/鎌遺2767)。平治の乱の源義朝方に「三河国住人には重原兵衛父子」が見えるので(平治物語),立荘は平安期で重原氏は荘官で源氏の家人であった。本所・領家や伝領関係は全く不明。建保4年の京都法勝寺九重塔開眼供養守護武士の内に重原左衛門尉次広が見え(明月記建保4年4月26日条),重原氏は鎌倉御家人で当荘地頭であったが,承久京方(承久記)で所領が没収されたのであろう。二階堂氏の地頭職は,仁治元年元行から行氏へ,文永8年行氏から行景へ譲られ,いずれも幕府の安堵を受けた(二階堂文書/鎌遺5627・5658・11142)。同年5月7日の道智(行氏)遺文案に「重原庄与今村堺事」があり(同前/同前10828),当荘の東隣は現安城市今本町であった。弘安8年霜月騒動で行景が誅罰されたのち,当荘地頭職は大仏氏に移り,建武新政の恩賞として足利尊氏に与えられた(比志島文書/近代足利市史3)。なお,建武3年9月17日の光厳上皇院宣で当知行安堵された勧修寺門跡領17か所のうちに当荘があり,領家職とみられるが沿革は明らかでない(勧修寺文書/大日料6‐3)。室町期を通じて当荘は将軍料所で,奉公衆や足利氏由緒の寺院に分割給されていた。貞和2年閏9月21日の足利尊氏下文で「重原庄内平(牛)田下切,馬渡,小林参ケ村地頭」職は二階堂行雄(法名行存)に勲功の賞として宛行われた(二階堂文書/同前6‐10)。行雄は観応2年4月30日に孫の直行に3か村を譲ったが(同前),のち悔返して子行仲に譲ったらしく,文和4年11月10日に改めて行仲から直行に譲られ(同前/同前6‐20),さらに永徳4年4月22日禅桂(直行)から山城守行貞に譲られている(同前/県史別巻)。二階堂氏以外には康永2年のせん阿申状案に見える「しけわらのしやうの内のた(野田)のかう(郷)のきう人,たきやうふ(野田刑部)入道せん阿の子きやうふ入たうほう」も足利被官衆の一員であろう(八坂神社記録2/続大成)。また鎌倉期以来の足利氏菩提寺といえる額田郡瀧山寺に「重原庄之内苅屋郷」が寄進され(瀧山寺文書/岡崎市史6),康正2年の段銭を「重原荘……郷」は奉公衆堤新次郎が,「豊(重)原荘若林郷」は同借宿五郎が納入している(康正二年造内裏段銭并国役引付/群書28)。したがって永正6年8月6日の願文で,荘内の本知回復のみならず当荘全体の知行を祈願した藤原行武とはやはり奉公衆の一員であろう(猿投神社文書/豊田市史6)。荘内には前出の各郷のほか,15世紀後葉以後の浄土真宗本願寺派の給像裏書類に見える竹村・小浜・八間郷があり,応永16年正月11日の熊野檀那職譲状写に「一所重原本郷并井加屋・にしさかい」とある重原本郷は重原城が所在した当荘の中心で,近世の重原村に連なる郷である(米良文書/大日料7‐13)。このほか譲状写に見える井加屋(井ケ谷)・西境・八橋・池鯉鮒【ちりゆう】・小垣江・小山・牛田3郷・東境・一木などの各郷も,当荘内と明示されている他郷との位置関係からみて当荘内とみてよい。したがって当荘域は現在の豊田市南西部(旧高岡町)と知立【ちりゆう】市・刈谷市のほぼ全域と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7357520