津島村(近世)

江戸期~明治11年の村名。尾張国海東郡のうち。尾張藩領。はじめ津島代官所,のち佐屋代官所支配。村高は,「寛文郷帳」6,591石余,「天保郷帳」6,846石余,「旧高旧領」は津島神社領を含めて9,987石余。この津島神社朱印地は天王川西岸にあり,特に向島・向島村と呼ばれた。これに対して東岸を町方あるいは本郷方と称し,狭義の津島村にあたる。その概高8,478石余,すべて蔵入地(徇行記)。「寛文覚書」では,津島本田方として中世以来の米座・堤下・筏場・下構・今市場5か村をあげ,その戸数1,082・人数5,539,馬90。六斎市や延米会所も開かれ,商工従事者が居住する町場としてにぎわいを見せた。なお,この5か村は津島村成長の基となった村々で,江戸期には米座町・堤下町・下構・今市場町・筏場町とあり,このほか北口町・坂口町・高町・辻町・厨子町・橋詰町・上切町・中島町・全灯籠町・片町など数多くの町名が家並みごとにつけられた。津島代官所は今市場中ノ切に所在した。津島神社が鎮座する向島には多くの同社末社が建てられていたが,町方には不動院・常楽寺・興禅寺・延命寺・大慶寺など多数の寺院があった。町方と向島の間を流れる天王川には天王橋が架けられていたが,この天王川がたびたび水害を引き起こすため,幾度かの治水工事を経て,天明5年天王橋の所で築留める工事が実施され,天王橋はなくなった。明治5年延命寺に津島義校が開校し,のち筏場町に移転し津島学校と改称(現在の南小学校)。同6年向島の禰宜町に協同学校が開校(現在の西小学校)。同11年津島町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7358876 |