中島郷(中世)

戦国期に見える郷名。三河国碧海郡碧海荘のうち。明応6年4月28日の阿弥陀如来絵像裏書に「碧海庄中島□(郷カ)」と見える(浄光寺文書/岡崎市史6)。天文18年4月7日の本證寺門徒連判状に中島に住む大嶽安次・越山家次の2名が連判に加わっている(本證寺文書/同前)。同23年10月14日の今川義元判物によれば,深溝【ふこうず】本光寺領の一部が中島にあった(本光寺文書/同前)。浄土宗崇福寺があり,永禄元年8月26日に今川義元から諸役免許などの判物,同3年6月3日に松平元康から禁制が出されている(崇福寺文書/同前)。同4年中島城主板倉重定は今川方として松平元康に反抗し,深溝の松平好景と対戦して額田郡岡城へ退いた。この時中島は深溝松平家が拝領して天正18年まで知行する。同年2月5日の深溝松平家忠宛知行書立によれば,中島郷は1,932俵1斗6升9夕1才とある(本光寺文書/同前)。「家忠日記」には天正6年3月24日条に「中島へこし,茶しに」とあるのをはじめしばしば所見し,家忠は崇福寺の振舞いに招待されたり(天正6年3月27日条ほか),鷹野のために出向いたり(天正8年2月13日条),川狩りを行ったりしている(天正16年1月9日条ほか)。一族で家臣の松平権兵衛が中島に居住しており,同所では月次連歌も開かれている(天正8年1月22日条)。中島は広田川沿いにあって水害にあいやすい所であったので,家忠は堤の修築に熱心に取り組んだことが日記にうかがえる(天正6年6月12日条ほか)。天正11年7月の洪水は被害も大きく,永良・中島は堤防切れのため「田地一円不残そんし候,家ひしけ候」という惨状であった。築堤工事は同13年3月に完成している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7359395 |