永良郷(中世)

戦国期に見える郷名。三河国幡豆【はず】郡吉良荘のうち。永禄5年5月22日松平元康は松平伊忠に,「長良之内村松給・拾石・蔵田・橋詰・名米・八反田」を宛行っている(譜牒余録/岡崎市史6)。松平伊忠は,永禄4年4月15日の吉良善明堤の戦で吉良義昭と戦って死んだ松平大炊助好景の子で,父の死後本領深溝【ふこうず】に住した。同6年6月1日松平元康は松平伊忠に,去年与えた永良郷のうち500貫文の地を保証するとともに,「永良郷残所相添,村松給・千本給・星野給・田方政所・御祝所諸給共一円」を宛行っている(同前)。同年閏12月日の本多広孝宛松平家康判物写に,「富永伴五郎知行貝福・駒場,并永良山田給之為替地進置地之事」と見え,下和田など3か所が与えられている(同前)。富永伴五郎は東条吉良義昭の重臣で,室城を守っていたが,永禄4年の家康の東条攻めの折に藤浪畷の戦で本多広孝勢により討死している。広孝はその時の戦功により,伴五郎の旧領を与えられている。天正3年5月の長篠の戦で松平伊忠が戦死すると,その遺領は松平家忠が受け継いだ。「家忠日記」は天正5年から文禄3年までの18年間の彼の日記であるが,永良郷に関する記録は天正5年から同17年までの間に随所に見ることができる。同書天正5年11月9・10日条には,「永良郷江鷹野ニ出候」「〈なから〉長池にて,白なわ引せ候 鯉三十三本取候」と見え,鷹狩や漁の記録が最も多い。長池は西尾市上永良町の西に通称として残る。家忠は築城の技術に通じていたが,また水利堰堤築造の堪能者でもあった。同書同6年6月9日条には,「永良へ堤つかせニ越候」と見え,15日まで続いている。同17年には検地の記録が見られるようになる。同年8月15日には「去十一日ニ永良へ縄打之衆島田次兵へ被越候由候」と見え,検地奉行はほかに小栗二右衛門の名前も見られる。翌18年2月5日の松平家忠宛伊奈忠次知行書立に,「千参百拾四表四升壱合弐夕 長良郷」と見え,当郷は家忠の知行地の1つであった(本光寺文書/岡崎市史6)。関東移封により,家忠は同年8月,武蔵国忍城に入り1万石を給された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7359601 |