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額田郡


鎌倉期の額田郡は足利氏が郡地頭職を保持しており,承久の乱の功賞として義氏に恩給されたものであった。おそらく熱田大宮司一族が有していた郡司職が承久京方没収地として所縁の足利氏に与えられたのであろう。平安後期以来の藤原氏系熱田大宮司家の開墾活動は,荘園の新立には至らなかったらしく,郡内には中世の全時期を通じて荘園は存在しなかった。足利氏は額田郡公文所を置いて同じく郡地頭職を有した設楽郡や西国の所領支配の本拠地とした。公文所は守護所を設けた矢作宿の足利氏邸に併置されたと推定される。史料上の初見は弘安4年であるが(尊経閣文庫所蔵文書/岡崎市史6),地頭職入手時にさかのぼるものであろう。公文所には寄人・沙汰人が置かれ,郡内に所領を給された一族・被官が任じられていたらしい。足利氏は一族や被官に郡内の郷司職を給与していた。義氏の再従兄弟にあたる義季は細川郷,定国は仁木【につき】郷(古代の新城郷),義季の子家俊は上地郷を分与されており,被官では高氏が菅生【すごう】郷・比志賀(日近)郷,粟生氏が秦梨郷,上杉氏が日名郷の郷司であり,倉持氏は仁木・萱園郷と便寺(大門郷)に屋敷・田畑を給されていた。さらに額田郡に多少とも関係のあった足利被官衆には伊勢・板倉・大平・大谷・小野田・和田の諸氏があった(瀧山寺縁起/同前)。なかでも大平惟行と大谷惟伴は連署して嘉禄2年4月に瀧山寺へ阿知波郷名越の田8反を寄進しており,足利氏と額田郡の関係を示す最古の史料である。このほか観応元年の額田郡一揆交名注文写(尊経閣文庫所蔵文書/同前)に名を連ねた簗田・山室・宮重・河路・鹿島(粟生の庶家)・高宮・進・椙山・大庭・土岐・樫山らも鎌倉期以来の被官衆とみてよい。たとえば大庭(大場)は正慶元年に深溝【ふこうず】へ移住したと菩提寺長満寺の縁起にある。室町期に入っても額田郡は足利将軍家領すなわち御料所であり,足利直臣衆への分割給付体制はかわらなかった。14世紀後期から15世紀後期にかけて奉公衆で郡内に所領を給与されていた者に彦部・岩堀・小島・進士・山下氏があり,寛正6年の額田郡一揆の参加者である丸山・大庭・尾尻・高力・黒柳・片山・簗田・芦谷の諸氏のうち丸山は奉公衆,ほかは末衆と推定される。なお「康正二年造内裏段銭并国役引付」では中山郷が京都の時宗七条道場金光寺,芦谷郷が天花寺領であった。14世紀末に東寺西院造営料所に寄進されていた山中郷はのち御料所に返還されているが,それを含めて郡内は前代の公文所の後身である額田郡政所の統轄下にあった。このような領有関係下の郡内岩津に加茂郡松平郷を本拠とした松平氏が進出するのは応永33年以前のことであるが(若一王子社史料/同前),おそらく幕府政所執事伊勢氏の被官という縁によるものであろう。3代信光の代の額田郡一揆討伐や応仁・文明の乱三河版の戦功で闕所地を入手したとみられる松平氏の惣領家は信光長男の岩津の親長で,岡崎(当時は明大寺)には次男と伝える光重が分立した。岩津家は永正3~5年の今川氏親との戦いによって滅亡し,惣領は信光三男の親忠を初代とする安城家が継いだ。安城家4代清康は大永4年に岡崎家3代信貞を追って岡崎城に入り,享禄4年頃に乙川北部の菅生郷内竜頭山の地に岡崎城を築いて本拠とした。以後天正18年に家康が関東へ移るまで松平(徳川)氏の支配下におかれ,当郡内から譜代大名とその家臣や旗本が輩出することとなった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7359981