額田郡

天正18年徳川家康の関東移封によって,田中吉政が岡崎城に入城,当郡内では2万9,705石を領有(柳川市所蔵田中文書)。残りのほとんどが吉田城主池田輝政の領知となったと考えられる(豊橋市史)。検地は,家康移封前の五か国総検地,数年間にわたる太閤検地が行われた。また吉政は,城郭拡張を伴う岡崎城下町の建設と乱流する矢作川の流路を一本化する改修工事に着手した。村数・石高は,「寛永高附」154か村・4万3,094石余,「元禄郷帳」162か村4万3,258石余,「天保郷帳」168か村・5万1,914石余,「旧高旧領」211か村・5万2,539石余。「天保郷帳」に見える村名は,岡崎町廻・八町村・日名村・上大門村・能見村・伊賀村・大樹寺村・藪田村・上ノ里村・井口村・門前村・井田村・鴨田村・稲熊村・小呂村・洞村・欠【かけ】村・大平村・丸平新田村・丸山村・高隆寺村・箱柳村・田口村・小美【おい】村・友久村・東阿知和村・西阿知和村・百々【どうど】村・東蔵前村・西蔵前村・磯部村・岩津村・仁木村・八ツ木村・細川村・桑原村・奥殿村・奥山田村・恵田村・真福寺村・丹坂村・宮石村・川向村・丸塚村・日影村・渡通津村・駒立村・滝村・板田村・才熊村・岩戸村・大井野村・米河内村・安戸村・新居村・大ケ谷村・柳村・一色村・小丸村・伊賀谷村・蔵次【くらなみ】村・岩谷村・中畑村・須淵村・鍛冶屋村・大林村・麻生村・中保久村・外山村・北須山村・蕪木村・田代村・保久【ほつきゆう】村・冨尾【とんびゆう】村・小楠村・上毛呂村・赤田和村・桃久保村・上田代村・蘭【あららぎ】村・切山村・木下【きくだし】村・笠井村・竹沢連村・柳田村・名之内村・法味村・土村・大河村・高薄村・古部村・栗木村・秦梨村・蓬生村・桜井寺村・寺野村・樫野山村・鬼津村・南須山村・柿平村・井之口村・寺平村・片寄村・淡淵村・平針村・千万町【せまんじよう】村・亀穴村・明見【みようけん】村・石原村・中金村・河辺村・栃原村・雨山村・大代村・滝尻村・鳥川村・光久村・細野村・鹿勝川村・鶫巣村・牧平村・大畑村・上衣文【かみそぶみ】村・下衣文村・本宿村・鉢地村・山綱村・市場村・羽栗村・舞木村・藤川宿・池金村・生平【おいだいら】村・保母村・生田村・岡村・蓑川村・尾尻村・馬頭村・竜泉寺村・長嶺村・久保田村・桑ケ谷村・大草村・横落村・荻村・芦谷村・深溝村・岩堀村・西脇村・鷲田村・北鷲田村新田・高力村・坂崎村・萱薗村・上地村・永井村・高須村・土呂村・大谷村・山畑村・若松村・針崎村・桂村・羽根村・明大寺村・久後村・上六名【かみむつな】村。当郡の支配は,江戸期を通じて岡崎藩領を中心に諸藩領・幕府領・旗本知行・寺社領が錯綜し,また相給村も多かった。当郡の相給の特徴は,多くの寺社領が絡んでいる点と2給が圧倒的に多い点である。また,寛永19年に郡境の変更が行われ,宝飯郡5か村・加茂郡6か村が編入され,当郡からは2か村が碧海郡に編入された。岡崎城を居城にした岡崎藩は,慶長6年~正保2年が広孝系本多氏,正保2年~宝暦12年が水野氏,宝暦13年~明和6年が松平康福,明和6年~明治4年が本多中務大輔家が藩主を務めた。郡内における岡崎藩領は,寛永2年の領知目録書抜で73か村・1万6,930石余(岡崎市史),「寛永高附」では86か村・2万16石余とある。その後,同10年に1か村,正保2年に7か村と2か村の一部が他領になり,「寛永朱印留」では72か村・1万4,429石余とある。享保10年に6か村加増,宝暦13年~明和6年42か村が幕府領に編入,天明5年4か村の各一部が加増され,天明8年の巡見使御尋之節答書控帳で112か村(本村80・枝郷32)・2万1,178石余とある(同前)。以後,藩領の変更はない。宝永年間頃に加茂郡大給【おぎゆう】から当郡奥殿に居所を移して奥殿藩が成立した。郡内領知の変動はなく,享保元年の奥殿藩諸記録書留で7か村・1,351石余とある(同前)。なお,のち文久3年陣屋を信濃国佐久郡に移して田野口藩となり,明治元年には竜岡藩と改称する。寛延元年に成立した西大平藩は,西大平村に陣屋を置いた。領知は,藩成立当初で郡内には2か村,安永元年以降12か村となる。慶長6年成立した深溝藩は深溝村に陣屋を置き,郡内領知は当初で8か村,翌7年から12か村(5,000石)となる。同17年廃藩となったが,寛永元年板倉重昌を藩主として再び成立。同2年の板倉重昌宛領地目録での郡内領知は3か村・1,627石余とある(同前)。同16年居所を碧海郡中島に移し中島藩となる。郡内領知は,「寛文朱印留」で2か村・632石余,さらに寛文12年下野国烏山に転封されたため,烏山藩の飛地となり,延宝8年幕府領に編入される。その他の藩領としては,作手【つくで】藩が慶長7~15年に3,000石,形原藩が元和4~5年に10か村,相模甘縄藩(のち上総大多喜藩)は「寛文朱印留」によれば,12か村・高3,310石余,元禄16年から明和4年は1か村,刈谷藩が寛永9年~慶安2年に16か村・3,785石余,志摩鳥羽藩が天和元年~享保10年に23か村,畑村藩(野村藩)が元禄元年~明治2年に5か村・2,616石余,明治2~4年5か村・1,086石余,吉田藩が宝永2年~安永3年に5か村・同年~天保2年に7か村,同年~明治2年に5か村・2,544石余,駿河相良藩が安永元年~3年に2か村,陸奥磐城平藩が享和3年~文久2年に4か村,文久2年~慶応4年に3か村・100石余,西尾藩が天保2年~明治4年に7か村・1,528石余,豊橋藩が明治2~4年に5か村・2,544石余を領した。旗本知行所も多く,形原松平・上郷松平・保母松平・桑谷松平・赤松松平・平針松平・大草松平・根崎松平・長沢松平・大島石川・保久石川・高須山本・土呂鍋島・岡部・岡山津田・土呂山口・天野・小島・本宿柴田・細川酒井・坂崎大久保・長沢巨勢・芦谷内藤・竹谷竹本・深溝板倉・京極・本郷水野・中島小笠原の各氏が領した。幕府領も,村数・石高・支配代官・代官系統(赤坂代官所・遠江国中泉代官所など)の変動があるが,江戸期を通じて存在し,「寛永高附」では4,253石余,「旧高旧領」では2,907石余。寺社領は多く,朱印44か寺社・黒印除地31か寺社がある。「寛永高附」では3,537石余,「旧高旧領」では4,231石余。徳川歴代将軍の位牌が安置されている大樹寺,正保2年瀧山寺内に建てられた滝山東照宮,伊賀八幡宮,六所神社をはじめ,徳川家ゆかりの寺社が多い。また,この地域は真宗地帯で,その檀家が多く,三河三か寺の1つ勝鬘寺もある。農業については,稲・麦のほかに,木綿が田・畑ともに生産されている。木綿の流通は岡崎組・土呂組・中島組など地域に分かれた仲買商以下の組織があった。岡崎の有力買継問屋として,大河原藤右衛門家があった。そのほかの特産物としては,八町村の早川家・太田家に代表される八丁味噌,延享年間に採掘が始まったという京ケ峰の雲母(額田郡誌)や羽栗山・山綱山の雲母,岩堀菱や岩堀鮒・平口魚と呼ばれる菱池沼の産物,乙川で漁獲した大平鮎,岡崎の弦差や燧・煙火,岡崎菅生鋳物(三河国二葉松・三河刪補松),岡崎随念寺門前石工品,青木川沿いに広がる絞油業(綿実挽き・油絞り)などがある。東海道が郡内を東西に横切っており,江戸より37・38番目にあたる藤川宿・岡崎宿があり,当郡内の多くの村が両宿の助郷に関係している。また,脇往還として南北に足助【あすけ】街道(中馬街道)・吉良道・道根往還などが走る。矢作川の舟運も盛んで,御用・桜馬場・満性寺・八丁・岩津・細川の各荷揚げ場があった。交通の拠点であった岡崎には,専売権が認められていた塩座・魚座が存在した。しかし,矢作川は度々災害をもたらす川でもあり,明和4年・安永8年・寛政元年・文政11年・嘉永3年などの大洪水では,本流や支流の堤が決壊し,多くの被害がでた。明治元年幡豆郡の人々1,500人余が平地村に集合した平地山騒動が起きた。また同2年,主に碧海郡の人々が助郷組替えによる負担と宿役人の不正暴露のため,岡崎伝馬所騒動を起こした。そのほか,隣郡を中心に同3年伊那県騒動,同4年大浜騒動が起き,当郡も関係を持っている。同年額田県に属し,同5年愛知県に所属。当郡は第10大区となる。同9年行政区画の編制で,第11大区となり,区会所は岡崎祐金町専福寺に移転。また,区裁判所もできる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7359982 |