野間荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。知多郡のうち。野間内海荘ともいう。康治2年8月19日の太政官牒写に「壱処〈字野間内海庄〉在尾張国智多郡内」と見え,安楽寿院領であった(安楽寿院古文書/鎌遺2519)。「吾妻鏡」文治2年壬7月22日条に「故左典厩〈義朝〉墳墓在尾張国野間庄」と見え,平治の乱の際に横死した源義朝の墓があり,荒廃していた墓に平康頼が水田30町寄進をはじめとする手厚い供養を加えたという。また建久元年10月25日条では源頼朝自身が「野間庄」の義朝の墓に詣で懐旧の情を催している。翌建久2年10月日の長講堂所領注文に「野間内海庄」と見え,御簾・御八講砂・門兵士3人・雑仕装束などを宛課されている(島田文書/鎌遺556)。また「吾妻鏡」正治2年6月29日条によると頼朝在世の頃,梶原景高の妻が「尾張国野間内海以下所々」を領したという。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録に「尾張国野間内海」と見える(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。応永14年3月日の宣陽門院御領目録写にも長講堂領として「野間内海庄」が見え,年貢として絹と糸を貢進している(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)。しかし,同20年頃の後小松院領目録写に「尾張国野間庄 細河中務大輔」と見え,このころより野間・内海と分離され,実際には細川氏が知行していた(京都御所東山御文庫目録/同前7‐19)。「康富記」宝徳2年2月25日条によると,「尾州智多郡内野間庄領家職」は庭田氏がもっていたが,「地頭〈細川奥州〉押領」を受けていた。また長禄3年12月日の高師長本領注文案に勲功地として野間荘の名が見える(蜷川文書1/大日古)。大永2年,連歌師柴屋軒宗長は野間から海路伊勢大湊に渡り伊勢神宮に赴いており(宗長手記/群書18),中世伊勢湾海上交通路の要衝でもあった。天正12年頃の「信雄分限帳」に中川勘右衛門の知行地として「弐千貫 知多郡野間其外」が見えるほか牧野勘八郎の知行地としても「一,弐千貫文 知多郡 野間三郷 千五百九十三貫余」と見える。なお,源義朝横死の伝承は「曽我物語」巻8箱根にて暇乞の事に「尾張国知多郡野間の内海といふ所にて相伝の家人鎌田兵衛正清が舅,長田四郎忠致にうたれたまひて」と見え,一般に流布されるのは南北朝期以降か。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7360098 |