深溝郷(中世)

戦国期に見える郷名。三河国額田【ぬかた】郡のうち。「宗長手記」大永7年条に「深溝とて,松平大炊助宿所」とあり,連歌師宗長は前年の上洛の時に続いて深溝の松平忠定のところに泊まっている。深溝城にはもと大場氏がいたが,松平元心が攻めてこれを奪い,弟の忠定が譲られて深溝松平を称していた。天文13年11月に宗牧も岡崎から西郡【にしのこおり】へ向かう途中で深溝へ寄り,松平伊忠の用意した小寺に旅宿をとった(東国紀行/群書18)。同23年10月14日今川義元は「深溝郷本光寺領」を安堵した(本光寺文書/岡崎市史6)。永禄4年に東条吉良義昭と戦って好景が死に,天正3年の長篠の戦でその子伊忠が討死するなど,家康の勢力伸張に功を尽くした深溝松平氏は,家康の上級家臣としての地位を確保し,深溝を拠点として中島・小美・保母・長良などの知行地経営にあたった。伊忠の子家忠の残した「家忠日記」の随所にそのことが記される。同18年2月5日の松平家忠宛知行書立によると,深溝松平氏の知行地は中島郷以下10か所8,948俵余であり,そのうち「深須之郷」は2,287俵1斗1升3合7才とある(同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7360815 |





