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米津村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。碧海郡のうち。元和3年西尾藩領,万治元年幕府領,元禄11年からは旗本久永氏知行。村高は,慶長9年検地帳,「寛永高附」ともに884石余,「元禄郷帳」1,108石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,209石余。家数・人数は明和5年311軒・1,348人。文久2年347軒・1,365人,他所奉公出稼39人(宗門人別御改帳)。石高の増加は新田畑の開発によるもので,ことに正保年間に鷲塚村まで堤防が築かれ,干拓新田が急増した。16世紀頃までは浦廻船の要地であったが,慶長10年頃に矢作新川が開削され村内を貫流したため,港としての機能が衰えたが,反面,川舟の土場が設けられた。城下町西尾と東海道池鯉鮒【ちりゅう】宿を結ぶ主要な渡し場ともなり,古くから農業のほか商業も盛んであった。寛政元年には東海道岡崎宿の助郷を命じられたが,矢作川渡船などの任務をあげて差村免除を嘆願している。米津神社は米津城主米津氏が津島天王社を勧請したと伝え,明治5年まで牛頭天王社と称した。神社の祭礼には飾り棚と呼ばれる特異な行事が行われ,2~5階建ての木櫓を組み操人形を使って歌舞伎の名場面を再現するもので,明治43年まで行われた。ほかに稲荷社・新田天満社・川向天満社・御鍬社・荒神社・春日神社があった。真宗大谷派竜讃寺は延徳3年の創立と伝えられる。明治4年宗門人別御改帳によると家数353・人口1,443。同6年米津学校開校。同12年米津亀太郎が私立盍簪学校を設立した。弟子が建てた西疇先生碑がある。明治9年米津橋が架設。同20年の「米津村誌」によると,農業のほかに,米雑穀商5軒・白米小売賃搗屋9軒・木綿卸綿小売10軒・餅屋菓子屋5軒・酒小売煮売屋13軒・荒物砂糖屋4軒・紺屋2軒・人力車挽き18軒・荷車挽き28軒。同22年米津村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7362228