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阿保村(古代)


 奈良期から見える村名。伊賀国伊賀郡阿保郷のうち。「臣等始祖息速別皇子,就伊賀国阿保村居焉,逮於遠明日香朝廷(允恭),詔皇子四世孫須祢都斗王,由地錫阿保君之姓」と伝えられる豪族阿保氏の本拠。延暦3年11月にはこの一族の武蔵介従五位下建部朝臣人上らが氏の名を阿保に復することを申請して許され,阿保朝臣と阿保公の姓を賜わっている(続日本紀延暦3年11月戊午条)。なお現在の青山町阿保南部の丘陵に群集する阿保古墳群はこの一族の墳墓とみられている。一方,阿保村はまた大和から名張を経て,伊勢川口に出る参宮路に面する交通の要衝でもあった。持統天皇の伊勢行幸も当地を通過したと考えられるが,天平12年の聖武天皇の東国行幸の際には,「十一月日甲申朔,到伊賀郡安保頓宮宿,大雨,途泥人馬疲煩」とあり,頓宮が設けられた(続日本紀)。その比定地は現在阿保頓宮跡碑がたてられている青山町阿保字上代の地が有力である(青山町史)。また伊勢斎宮の群行や退下(平安期は凶事による退下の場合)にもこの頓宮が利用され,頓宮付近は「伊賀川口」とも呼ばれた(西宮記臨時5・江家次第12)。永万元年12月,前斎宮(後白河天皇皇女好子)の帰京にあたり供奉の「寮侍武者所」が「伊賀河口」で刃傷事件を起こしている(顕広王記永万元年12月21日・22日条/古事類苑神祇部59)。11世紀前半,阿保村は上・中・下の3か村に分かれ,「上津阿保村」と「中津阿保村」は「当国猛者」と称された藤原実遠の所領となる。天喜4年2月23日の藤原実遠所領譲状案によれば,上津阿保村の四至は「限東伊勢山,限南伊勢道,限西岡,限北山」,また中津阿保村のそれは「限東伊勢道口,限南名張河,限西三谷口,限北山」である(東南院文書/平遺763)。このうち伊勢山は伊勢との国境の山地,岡は現在の青山町下川原と岡田の間に横たわる丘陵,伊勢道口はこの丘陵を横切る道の西側の入り口をさすと考えられ,また三谷口については阿保上川原地区に残る三谷下という小字が参考になろう(ただし名張河は誤記であろう)。したがって,上津阿保村は現在の勝地から下川原にかけて,中津阿保村は寺脇・岡田から阿保東部にかけての地域にあたるとみられる。一方,下津阿保村は文書には見えないが,現在の阿保西部から羽根にかけて比定されるであろう。これらの実遠の所領はさきの譲状により,甥の藤原信良に譲与されたが,その後の伝領関係は不明である。平安末期にはこの地に石清水八幡宮領阿保荘がたてられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7362384