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伊賀国


筒井定次の治政23年間は,残存する国人衆勢力を国中より一掃することに意を注ぎ,農民支配にあたっては在地勢力を利用せずに大和国から同行させた土豪に当たらせ,勧農とともに苛酷な賦役・軍役を課した。定次は,関ケ原の戦で東軍に属し,徳川家康によって本領を安堵されたが,慶長13年家臣団の暗闘から家臣が行状を家康に訴えたため,酒色と政務荒怠を理由に没収された。同年筒井定次にかわって,伊予国今治から藤堂高虎が当国一円と伊勢国を合わせて22万石余で入封する。伊賀上野には城代が置かれ,当国は以後廃藩時まで藤堂氏の領知(津藩領)となる。高虎は,対大坂防備の軍事的拠点として当国を位置づけ,慶長16年伊賀上野城の修築に着手した。高虎は当国を「西国ノ咽喉,七道ノ中尤要枢ノ地」で「守ルニ易ク攻ムルニ難キ高陽ノ国」,また「天険ノ国」(公室年譜略)あるいは「秘蔵ノ国」(高山公言行録)と位置づけている。当国は,阿拝・山田・伊賀・名張の4郡からなり,村数・石高は,慶長3年検地目録では10万石,「寛文朱印留」「元禄郷帳」182か村・10万540石,「天保郷帳」182か村・11万96石余,「旧高旧領」197か村・11万917石。「統集懐録」によれば,天和年間頃には本高10万540石の内訳は田8万5,432石(85%)・畑1万5,108石(15%),平高は14万7,586石。家数・人数は,慶長13年9,744軒,慶安4年1万6,469軒・6万8,374人うち男3万5,144人・女3万3,230人(宗国史),万治3年7万5,850人うち男3万9,331人・女3万6,519人(永保記事略),宝永6年9万8,711人うち男5万284人・女4万8,427人(宗国史),享保12年1万9,144軒・8万9,475人(永保記事略),延享元年9万3,653人(庁事類編),寛延4年2万1,081軒・8万9,086人(宗国史),宝暦6年8万8,526人,文化元年8万190人。上野の城代には,当初高虎の弟の藤堂出雲守高清が任命されたが,寛永17年以後は予野村出身の藤堂采女(もと保田)が任命された。享保年間頃には一時藤堂玄蕃となったが,再び采女家に戻り幕末まで世襲した。城代の下には2人の伊賀加判奉行,その下に郡奉行2人,郡代官2人がおり,郷方に8~10人の大庄屋がいた。大庄屋は10数か村を管轄し,その居住地を冠した組の名で呼ばれた。村役人は庄屋・年寄・五人組頭の三役。藩領は,蔵入地のほかに,藤堂采女・玄蕃・新七郎など高禄家臣の給地があり,平高によって給与されている。この地方知行は幕末まで存続し,農民の服属関係を複雑にして農村の分断支配に効果があった。当国は津藩の一円知行地であったため,藩政の特色を示す平高制・無足人制・伊賀者などの由来は当国から発する。とくに平高については,津藩伊賀領は伊勢領に比して延率が高く,伊賀196か村のうち179か村に延があり,延が5割を超える村が93か村にのぼった。また,藩は明暦~元禄年間にかけて内検を実施し,この内検による村高を分米高と呼び,新田畑は分米高の4割を免率とした。分米高は本高に比し概して低く,平高が分米高の2倍を超える村も少なくなかった。無足人は,越前松平忠直配流の越前戒厳の際,伊賀領より農兵50人を募ったのが起源で,伊賀の乱で織田勢に果敢に抵抗した土豪を懐柔し,村落支配と軍備補充要員として役立てたものである。人数は,慶安年間に75人,寛文11年には無足人制度が完成し,元禄年間には1,200人余に及んだ。大庄屋はもちろん伊賀領182か村の庄屋の過半は無足人から取り立てられた。御目見無足人のうち5人が無足人頭となり,鉄砲隊(のち藪廻り無足人と改称)長となった。天正年間の伊賀の乱で敗れて離散した伊賀の地侍は,徳川家康により厚遇され,家康が本能寺の変の際に三河へ帰国の時,柘植の地侍の護衛で鹿伏兎の険を越えることができた恩義により彼らを伊賀者として服部半蔵に付託したという由来をもつ。藤堂高虎も大坂夏の陣に伊賀者50人を利用し,その後も常時20人の組織となった(寛永13年伊賀付差出帳)。伊賀者は,上野忍町に集住した下忍と無足人として在郷する者があり,寛政年間の一揆,ペリーの下田来航,戊辰戦争などの情報収集に従事した。桑名伊賀町のように他藩で召し抱えることも多く,津藩は慶安2年妻子を伊賀に置いて他藩領主に仕える伊賀衆の追放を命じた(宗国史)。寛永18年の大凶作を経験した藩は,新田開発を積極的に進め,伊賀加判奉行加納藤左衛門は西島八兵衛の指導を得て多くの新池築造,古池修築を行った。正保元年伊賀山田川の堤防工事,同4年山畑村の新田開発,さらに承応3年伊賀郡小波田野に新田150町歩・新畑50町歩開発の藩直営工事を企画し,大池を造り,翌年完工した。しかし入植者が少なく開墾が進捗しないため,大坂の富豪安井九兵衛にも塩専売権と引換えに協力させ,高尾村から用水路を引いて水田100町歩・畑50町歩の新田村を造った。近世後期には,名張郡内下比奈知・平尾・黒田村などで庄屋・年寄層が中心となって井堰・水路を造り,新田開発・荒廃田の良田化が行われた。街道は東西に通ずる2つの横断路があり,北は奈良から山城国大河原を経て伊賀島ケ原に入り上野を経て上柘植より加太越えして伊勢に通ずる伊賀街道(大和街道)と,畿内よりの参宮街道として知られ,大和国榛原より名張・阿保と経て伊勢路より青山峠越えの初瀬街道(俗に参宮道)がある。ほかに佐那具より七里峠ともいわれた桜峠を越えて近江国信楽を経て京都に至る京師道,近世になって重要視された津と上野を結ぶ長野越えともいわれた伊賀街道,上野と名張を結ぶ上野街道が主要な街道であった。舟運は慶長年間京都の角倉氏が筒井定次の要請により伊賀川の舟路を開いた。角倉氏は寛文年間に幕府と津藩に願い出て川底をさらって高瀬舟による舟運を行ったが,瀬が多いため十分な発展をみず,当国は江海巨川なく漕船の利なき(宗国史)地であった。藩は藩主の通行をはじめ公用荷物の運輸のため領内の主要街道に宿駅を設け,伊賀街道では平田・上阿波(のち平松),大和街道では島ケ原・上野・佐那具・上柘植,初瀬街道では名張・阿保の宿駅を置き,伊賀八宿と呼んだ(統集懐録)。各宿駅には規定数の馬を常備させ各宿駅間の駄賃も定め,脇道を通ることを禁じた(宗国史)。高虎は入国した慶長13年商業資本の在郷に入ることを警戒し,また城下町商人保護のため「国中万うりかひ之儀上野町并なんはり(名張)之町同あを(阿保)之町にて商売可仕候右之外に而うりかひ堅令停止者」(宗国史)と触れ,上野・名張・阿保の3町以外での諸商売・酒造を禁止したが,商品経済の発展にともない在郷でも商人が増え,寛文10年宿駅の佐那具・山田など5町を新たに加えて8町が諸役免除の町と認められた。しかし,享保5年上野の本町・二之町・三之町の三筋町が在郷商売の禁止を支庁に嘆願,さらに同19年上野・名張・阿保の3町も嘆願し,特権商人と在郷商人との対立が深刻化した。「伊賀国百姓田畠之外所作これなし」(宗国史)といわれたように五穀のほかに格別の商品作物はなかったが,藩は慶安3年に漆の木・桑などとともに綿作の栽培に年貢免除の特権を与えて奨励し,繰綿として売られ,大和の綿作地の商人も入り込んで買い上げた。ほかに砂糖の製造・紙漉きなどが一部で行われたが伸びず,商品作物の顕著な発展はなかった。松茸は北部の山々が名産地で,慶安元年5万3,000余本の収穫があり,津・上野城内で消費され,残り1万3,000余本が売却された。伊賀焼は良質の陶土を産するとともに古伊賀の伝統を伝える阿拝郡丸柱と槇山窯(阿山郡)が中心で,寛永12年2代藩主藤堂高次が丸柱に京都から陶工を招いて茶器を作らせ藤堂伊賀と称されたのに始まり,槇山窯は信楽系統の陶器を産した。文化・文政年間頃には弥助・定八・九兵衛,天保年間頃には得斎などの陶工が名声を博した。学術・文化では,10代藩主高兌が津の藩校有造館の支校として文政3年に上野に藩校を開き,はじめ文場または学館と呼んだが,のち崇広堂と改め,今も現存する講堂を中心とし,作詩・作文など文学に重点を置いて小谷巣松・猪飼敬所らが教授に当たった。名張藤堂氏も安政5年その邸内に「赤目観瀑図誌」「遊香落澗記」など著した鎌田政挙(梁州)を教頭として藩校訓蒙【きんもう】寮を開学した。寺子屋は幕末時に77を数えるが,名張の医師中村左橘が貞享2年開いた一昇堂が伊賀で最も古くて寺子数も多い。その他は文化年間以降に開かれたもので,規模の大きいものに上野紺屋町の武士房川文太の寺子350人,農人町の中森兄亮経営の筆生堂300人などがあった。京都に始まった石門心学は,寛政年間頃当国にも広まり,手島堵庵の弟子上川淇水が柘植(伊賀町)に麗沢舎を開き,農民を中心として友田・玉滝(阿山町)など伊賀北部の農村に広まった。上野にも寛政7年有誠舎ができ,のち京都から柴田鳩翁を講師に招き,城詰めの家中の間にも広まった。伊賀出身の学者には,貞享・延宝年間頃「世諺一統」「伊水温故」「伊乱記」「茅栗草子」など著した上野の菊岡如幻,宝暦13年に伊勢・伊賀・志摩3国の地誌「三国地誌」を編集した伊賀上野城代藤堂元甫がいる。また,伊賀城代の記録に,津藩城代家老の日記である「永保記事略」「庁事類編」がある。俳諧では,正保元年伊賀に生れた俳聖松尾芭蕉が著名。初め藤堂新七郎の子良忠に仕えたが,主君の死にあって京都に出て北村季吟に学び,帰国後処女句集「貝おほひ」を上野天満宮に奉納したのち江戸に出て俳諧に精進,談林派の卑俗な俳諧を芸術に高め,蕉風体を確立した。芭蕉は前後12回伊賀に帰り,服部土芳ら当国の門人も多く,上野の門人の蓑虫庵・瓢竹庵など5庵で帰国のたびごとに句会を催した。災害では安政元年の大地震の被害が大きく,上野城下で全壊448軒・半壊519軒,圧死者125人,農村部で全壊1,863軒・半壊3,380軒,死者461人の被害をうける。民衆の動向については,藤堂氏の伊賀入国後,大坂夏の陣のとき虚に乗じて阿拝郡の農民が上野城に乱入,放火を企てることがあったが,藩の無足人による村落支配,平高制による村落分裂支配策など厳重にして巧妙な政策により,当国では幕末時まで一揆はなかった。しかし,中期以降の農村の階層分化と疲弊の進展にともない不穏な動きが散発した。享保8年には山田郡蓮池村の庄屋を相手取り訴状を出した小百姓6人が入牢,4人が手鎖の処分を受け(永保記事略),宝暦12年にも伊賀郡猪田村の百姓7人が入牢し,その他足鎖・手鎖などの処分を受けるという事件が起きている(庁事類編)。また,天明7年には名張の黒田川原に百姓が強訴のため集合して指導者が処罰され,さらに山田郡下友生【しもともの】村の庄屋が免税を嘆願したが入れられなかったため老中松平定信に直訴を企て,寛政4年斬罪を受けるなど不穏な動きが出た。明治4年安濃津県は旧来の平高制を本高課税に改めて3割の減税を行うことを約束したが,政府の命で翌年3月まで実施延期となったため,長年の平高に苦しんだ名張郡28か村の庄屋が本高課税実施を主にした7か条を訴願した。しかし,これは入れられず,中村・瀬古(名張市)など南部の農民数千人が暴動化し,梁瀬の庄屋宅を打ちこわし,さらに伊賀4郡に波及して10人の大庄屋や富商の家を打ちこわして上野支庁に迫った。これを伊賀農民一揆・平高騒動という。なお,文久3年天誅組の変に際しては津藩は幕府より鎮圧の命を受けて上野から藤堂玄蕃らを派遣したが,この時伊賀領の無足人から成る撒兵隊が動員されて大和との国境警備に当たるとともに大和での実戦に参加した。長州戦争の際も摂津国西宮で伊賀藩兵300人が警備に当たり,鳥羽・伏見の戦いにも山崎関門を守っていた伊賀城代藤堂采女が勅命に応じ幕府軍に攻撃を加えたため幕府軍総崩れの因となり,戊辰戦争にも伊賀領から多数の無足人が従軍した。明治4年廃藩置県により国郡制が廃され,当国は安濃津県となり,同5年三重県に所属。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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