上野藩(近世)

江戸初期の藩名伊勢国奄芸【あんき】郡上野(河芸【かわげ】町上野)周辺を領有した外様小藩居城は上野城文禄4年豊臣秀吉により伊勢国奄芸・飯野・一志【いちし】・度会【わたらい】郡内に1万石を封じられた分部光嘉は,関ケ原の戦で東軍に属し,1万石の加増で上野を居所として立藩分部氏は戦国期中勢の雄であった長野(工藤)氏の一族で分部城(津市分部)に拠ったが,永禄11年織田信長の中勢侵攻に際し,長野氏の重臣細野藤敦らは安濃城(安濃町)に拠って防戦したが,藤敦の弟分部光嘉は織田氏に従い,信長の弟信包を長野氏の継嗣として上野城に迎え,自らは中山城(津市栗真)に入った元亀元年信包は津城の分城として上野城を築城させたが,天正8年津城が完成すると信包はそこに移り,上野城は津城の出城となり,光嘉は城代となった文禄3年信包の近江転封に伴い,同4年光嘉は秀吉から上野城主に任ぜられたのである左京亮光嘉は関ケ原の戦には津城主富田信高とともに家康の会津攻めに参加したが,石田三成の挙兵により急遽帰国し,信高とともに津城に籠城して自らも負傷した戦後家康より奄芸郡内で1万石加増され2万石となり,聟長野次衛門尉の息光信を継嗣とし,光信も大坂の陣に本多忠政の組に属して活躍したが,元和5年近江国大溝2万石に転封となり廃藩

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7363106 |





