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大塩屋御園(中世)


南北朝期~戦国期に見える御園名伊勢国度会【わたらい】郡のうち大塩屋之村とも見える延文4年4月15日の尼円阿畠地譲状に「度会郡高向郷大塩屋御薗内中沢」とあるのが初見(太田文書/日本塩業大系2)高向郷に属す地内には,中沢・鮨桶・森前・北浜・仁和(仁羽,尒和)・向浜・須崎・大湊八幡東の小地名が確認されるが,中沢・鮨桶は塩屋御園のうちの小地名としても見え(太田文書/日本塩業大系2),両御園は同一地域にたてられたと推定される塩屋御園は外宮の度会氏との関係があったのに対して,当御園は内宮の荒木田氏の勢力下にあったようである応永9年10月9日の藤原幸憲浜売券によれば,大塩屋御園の領家は荒木田神主尚朝,預所は興長であり,応永28年12月5日の荒木田尚満譲状案では,尚満から尚重に惣領職が譲渡されているが,その職の内訳は「里のけんたん并より船,なかれ物,大塩屋ミそのゝ内,つゑつく程も当知行の分」であり(同前),尚満は「尚」の通字からみて領家尚朝の一族であって,惣領職とは実は領家職ではなかろうか永享4年になると,木下(荒木田)尚重は惣領職の一部であった検断職を善光・荒木田重員・荒木田重富以下10人の人々に売却しているが,これらの中,善光,荒木田重富は,御園の惣里老分衆と呼ばれる人々であり,10人のメンバーはいわゆる惣の代表であったと推測され,この検断職の売却は惣が自検断を確保したことを示していると考えられるさらに,永享9年には,預所興長の子孫と思われる興晴,興光が「大しほやの人々の御中」(惣)へ預所職を売却して,当御園の人々は完全に荘園的支配から脱却して,惣のもとで自立した惣は惣里老分衆と呼ばれるものが中心になり,運営されたとみられ,惣が買得した土地はこれらの人々が中心になって分配している(太田文書/日本塩業大系2)しかし,惣の絶頂期の永享年間には,大塩屋東殿(太田氏)の土地集積がはじまり室町末期~戦国期には太田氏が当地一帯に勢力を確立していたようである寛正6年,原因は不明であるが,外宮は大塩屋への発向を内宮に告げ,協力を要請しているこれに対し内宮は祭礼最中であり発向を延期するよう申し入れている(氏経引付)現在,大塩屋の地名は残っていないが,大湊領元田由来書によれば,明応7年8月25日の大地震による津波で大塩屋・塩屋村は被害を受け,荒廃し,さらに,江戸期の明暦3年の大地震によって宮川の河道が変化して当御園一帯は水没したという(同前)現在の宮川の河口付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7363421