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大屋戸村(古代~


 平安期から見える村名。伊賀国名張郡夏身郷のうち。大屋戸郷とも。また小屋戸・尾屋戸・大家戸とも書く。藤原朝成家領薦生牧立券に際して出された康保3年4月2日の伊賀国夏身郷刀禰等解案に「件名張河西,薦生御牧上方,添山所在寺神領田畠・私人領地・公田,其数已多,或号大屋戸,或号夏焼,然而其領主各別也,併非東大寺領」とあるのが初見(東大寺文書/平遺289)。この時,寺領板蠅杣の四至内だとする東大寺の主張は退けられ,東大寺の板蠅杣四至拡張の企ては一旦頓挫する。しかし,その後も東大寺は杣四至の拡大をはかり,長元7年には一旦名張川を東堺とする板蠅杣の四至が決定され,杣工の臨時雑役が免除される(東大寺文書/平遺1739)。だがまもなく国司側の反撃により,杣四至内田地の収公が行われ,天喜3年には「名張郡田堵久富」に「黒田・大屋戸両村」の作田48町7反200歩の所当官物を弁進すべき旨の国司庁宣が出される(百巻本東大寺文書/平遺750)。東大寺はこれに反発,朝廷に訴え,同4年閏3月,官宣旨により,黒田荘(板蠅杣)の四至牓示が打ち直され,名張河西の本免田が免除されることになる(東南院文書/平遺787)。この結果,当村は黒田村とともに黒田本荘として確定され,この後は史料には「黒田御庄大屋戸村」「本庄大屋戸村」として現れる(東大寺文書/平遺1648,百巻本東大寺文書/平遺3880)。当村はまた12世紀前半の直定以来黒田荘下司職を相伝し,「御庄威猛第一」といわれた大江氏の本拠であったとみられ,村内には氏神の杉谷神社や氏寺の大江寺が存在した。鎌倉中期と推定される黒田荘公事勤否名々注文案には「大屋戸卅二名」と見える(東大寺文書/鎌遺16384)。この中には筏師(良千)や檜物師(重友)の名もあり,当村には筏師や檜物師が居住していたことが知られる(東大寺文書4-58)。また嘉元2年正月14日の黒田荘有得交名注進状案には「ヲヤト」居住の有得人として「弥八入道」以下3名が記載されている(東大寺文書4-7)。延慶4年,「大屋戸郷」百姓らは「自本為小郷之上,近年或令死亡,或令逃散,在家□令減少候」ことを理由にあげ,賦課される郷夫・伝馬役が過重であると訴えている(東大寺文書11/大日古)。このような在家の減少は鎌倉後期から活発になる悪党の活動と無関係ではなかろう。黒田荘の悪党のうち,金王兵衛尉盛俊(大江)・荒五郎などは当村に屋敷を構えており,嘉暦2年には盛俊らは住宅破却と敷地没収のため下向してきた東大寺使を荘家から追放し,黒田坂において神人を殺害している(東大寺文書10・11/大日古)。盛俊ら悪党による東大寺に対する敵対行動は寺家のたびたびにわたる追捕の要求にもかかわらず,南北朝期にも続けられる(東大寺古文書/大日料6-6)。室町期に入り,黒田荘百姓らが東大寺に年貢納入を請け負った永享11年7月22日の起請文には「大屋戸村之分」として,次郎左衛門唯1人が署判を加えている(東大寺文書11/大日古)。この時期,当村を支配した土豪であろう。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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