神戸藩(近世)

江戸期の藩名伊勢国河曲【かわわ】郡神戸(鈴鹿市神戸)周辺を領有した小藩はじめは外様,のち譜代居城は神戸城慶長6年尾張国黒田城主一柳直盛が5万石で入封して立藩それ以前の神戸の地については,伊勢平氏の後裔と伝える関氏の一族神戸具盛が天文年間に神戸城を築城し(神戸録),孫の友盛のとき織田信長の北勢侵攻をうけ,永禄11年信長の三男信孝を養嗣として和睦した信孝は元亀2年神戸城主となって天正10年まで14年間在城し,神戸城を修築して五層の天守閣を建てた本能寺の変後,織田信雄の家臣林(神戸)与五郎が神戸城主となったが,天正12年羽柴秀吉と信雄の争いから信雄方の林与五郎は美濃に脱出し,秀吉は同年生駒親正に4万1,000石与えて神戸城主とした秀吉と信雄の和睦により同13年信雄の家臣滝川雄利が2万石で入り(武家事紀),さらに3年後の同15年(諸家譜は18年)水野忠重が三河国刈谷から4万石で入ったが文禄元年刈谷に戻り,そのあとに滝川雄利が再び2万石で神戸城主となった関ケ原の戦に雄利は西軍に与して除封され,慶長6年一柳監物直盛が入封したのであるこれによって江戸期の神戸藩が成立する一柳氏は外様大名であった直盛は寛永13年伊予国西条に6万8,000石で移封となり,神戸城は破却され,一時廃藩となったその後慶安3年まで15年間幕府四日市代官佐野平兵衛の支配地となった慶安3年大久保忠隣の孫石川総長は父の遺領から伊勢国河曲・鈴鹿郡内で1万石を分知され,翌年神戸に入部して諸侯に列し,再び立藩した万治3年大坂定番となったとき河内国石川・古市両郡内で1万石を加増され,合わせて2万石を領有した石川氏は譜代大名で,総長のあと総良・総茂と在封し,総茂継領のときには弟の大久保忠明に3,000石を分知し,以後1万7,000石を領有した総茂は寺社奉行を勤め,吉宗のとき若年寄から西丸側用人となった享保17年,領内での善政を認められて3,000石の加増で常陸国下館に転封されたが,転封の際は十日市場村など領内農民40人が江戸に出て留任の嘆願運動をしたといわれる代わって河内国西代より譜代の本多忠統が入封し,伊勢国河曲・河内国錦部両郡内1万石を領有以来神戸の地は廃藩置県時まで140年間本多氏が領知した延享2年忠統は河曲・鈴鹿・三重郡内で5,000石加増され,あわせて城主大名として認められた翌年城郭改築の許可が下り,幕府より2,000両の恩貸を受けて2年後の寛延元年に完成した藩領の変遷は,石川時代(2万石のとき)は伊勢国河曲郡のうち16村1万石,河内国石川郡のうち23村8,479石余・古市郡のうち6村1,520石(寛文朱印留)本多時代は1万石のとき伊勢国河曲・河内国錦部の2郡内1万5,000石になると,これに伊勢国鈴鹿・三重両郡が加わり,廃藩置県時の村数は河曲郡14・鈴鹿郡4・三重郡1・錦部郡14伊勢領内の状況は,天明5年の村数19,在方の家数1,283・人数5,702,神戸町数12,城下町の家数573・人数2,172で,領内総家数1,856・総人数7,874(神戸地方平原史),文化14年の在方の家数1,212・人数5,528(諸用雑記),廃藩時の戸数3,146・人口1万3,015廃藩時の内高(実高)は1万7,000石本多氏の統治機構は,家老・用人・大納戸役・小納戸役・鳥廻小姓・大目付・町奉行・郡奉行があり,町奉行の下には町年寄・町名主,郡奉行の下には寺社奉行と代官・大庄屋・庄屋が置かれた藩主は忠統(~寛延3年)のあと忠永(~宝暦10年)・忠興(~明和3年)・忠奝(~享和3年)・忠升(~天保11年)・忠都(忠廉,~安政2年)・忠康(~安政4年)・忠貫と相続忠統は荻生徂徠の高弟で文人大名として知られ,「猗蘭」「長月庵」と号し,詩文集に「猗蘭台集」17巻がある忠奝の時に藩校を設けたが,忠升の代に学制を改革,文化9年藩校を教倫堂と名付け,教倫堂条目を定め6歳以上の士分の者を修学させた藩の財政難打開策として,天明年間には家臣から2割ないし4割の借上げを行い,文政年間には近江国信楽【しがらき】代官多羅尾氏や四日市の豪商山中伝四郎から数千両を借金し,天保12年には神戸の町人へ上納金を賦課し,また本家本多氏からも1万両の融通を受けたさらに弘化2年にも主だった34人の町人に上納金を求め,嘉永5年には町人24人より冥加金630両を納入させ,かわりに苗字帯刀・裃着用を許可した幕末期には忠貫は文久3年から山田奉行を勤めた河内国錦部郡長野の代官で藩校教授も兼ねた吉川治太夫は,天誅組に協力した嫌疑から捕えられ,藩は幕府の咎を恐れて吉川家を断絶させたが,吉川家はその後明治3年再興された明治4年廃藩となり,伊勢国内の藩領は神戸県を経て安濃津【あのつ】県となり,同5年三重県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7364285 |