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桑名郡


宝治2年の前掲益田荘荘官某申状中に「蠣貢御江埋跡」「貢御人」の記載が見える。当郡には蠣塚・貝塚が多い。海辺の住人は蔵人所貢御人として,カキを貢進・交易するほか広く海業に従事していたと思われ,やがて彼らの居住地は禁裏御料桑名としてあらわれてくる。「吉続記」の御神楽用途を益田荘知行人近衛家基に「割出」した記事(弘安2年5月20日条),「公家御祈料所益田庄」(万一記文保3年1月3日条)は益田荘そのものというより彼ら貢御人居住地「桑名」をさすと思われるが,室町期になると「桑名庄」ともよばれるように地域的にも明確化するとともに(文和2年教王経開題愚草奥書,宝生院経蔵目録/大日料6-21),貿易港としても発展をみせ「都市」へ成長していく(応永30年守護一色義範書状,円覚寺文書/相州古文書)。古代の多度地方の地位は桑名にとって代わられていった。鎌倉期の当郡をとりまく政治情勢は明らかでないが,室町期には幕府勢力の浸透が著しい。すでに貞和3年には益田荘が幕府御料所であったし(園城寺文書),応永32年以前,香取荘も御料所となっている(満済准后日記応永32年9月16日・10月20日条)。深矢部には奉公衆二階堂氏がいた(文安番帳など)。桑名には「本警固」(海上関)が設けられ,政所が設置されており(氏経引付),それらは益田荘の幕府代官支配下にあったのであろう。しかし15世紀中葉には美濃守護土岐氏が益田荘代官となりその勢力を浸透させている(親元日記寛正6年7月6日条)。文明5年,守護代斎藤妙椿は長野氏と呼応,北勢に進出,梅戸(津)城を陥落させているが(大乗院寺社雑事記文明5年10月11日条・11月3日条),これも益田荘を掌握していたからこそ成功しえたのであろう。明応2年には代官として斎藤一族駿河守某(基広か)の名が見えるが(蔭涼軒日録11月晦日条),同5年守護代斎藤妙純が六角氏に敗死したことは当郡に混乱をもたらした。永正元年,大館大炊頭尚氏が益田荘代官職を請け負っているが(宝鏡寺文書),長くは続かなかったのではないかと思われる。同7年長野氏が桑名に侵寇,住民は逃散でもってこれに対抗しているが(守晨引付),これは長野氏の単独行動ではなく,幕府の命によったものであろうし(今堀日吉神社文書),桑名住民の動きは明応5年以後の政治的混乱と無関係ではなかろう。天文年間になると,六角氏勢力の浸透が著しい。天文5年長野氏は梅戸氏の桑名入部の動きがあることを本願寺証如に報じ長島願証寺の援助を請うているが(本願寺日記10月18・27日条),同7年桑名は長野・梅戸氏に分割されている(同前,天文7年12月13・16日条)。当時,梅戸氏は高実で彼は六角高頼の次男であった。天文7年,梅戸氏は長野氏の桑名発向を報じているが(同前),天文9年六角氏が伊勢へ発向しているのは(大館常興日記天文9年9月4日条),桑名支配をめぐるものであったろう。六角氏が桑名松岡城を拠点とし,員弁郡の国人大木孫太郎等を拠らしめ,奉公衆朝倉・横瀬氏らの攻撃を撃退しているのはこの頃のことであろう(佐八文書/栃木県史史料編)。室町期の当郡を特徴づけるのは長島願証寺に結集した一向宗門徒の動きである。木曽三川の中州=島が一向宗門徒王国に変貌した詳しい経緯は不明であるが,天文年間には一大政治勢力として伸張しており,前述の長野・梅戸両氏の願証寺協力依頼,天文5年の土岐氏の援助申し出(証如上人日記10月18日条),同9年の伊勢出兵にあたって六角氏が門徒衆の動向について証如に申し入れている事実(同前,天文9年10月28日条),さらには「桑名公用」の徴収につき皇室が願証寺に依願していることなど(同前,天文8年3月9・10日,同11年10月26日,同年11月2日条)によってうかがわれるところである。永禄10年桑名郡は織田信長支配下に入るが,長島門徒王国はその後も抵抗を続け,天正2年信長軍の攻撃をうけ崩壊した。なお,戦国末期から江戸初期にかけて当郡を横郡と称した事例が見える(信雄分限帳など)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7364619