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通村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。度会郡のうち。伊勢神宮領。山田三方会合の支配下に置かれ,年寄衆が村政にあたった。神領のため村高は不明で,「元禄郷帳」「天保郷帳」はともに高を「不知」と記す。天保年間の村の広さは東西140間・南北175間(勢陽五鈴遺響)。寛永20年の宗門改帳によれば,戸数145・人数492(男250・女242)。15歳になると額取が行われて若衆組に入り,若衆組は年寄衆から治安警察権を与えられて村の入会権の擁護など村政の一翼を担った。一方神事を担当する集団として当仲間があった。明暦3年朝熊【あさま】村昼川山の入会権をめぐって争論が起こり,山田奉行所は通村が朝熊村に年貢を出すことで通村の入会権を認めたが,両村の山論はその後もしばしば発生,寛文7年山田奉行所は通村の入会権を再度保障した。万治2年には汐合【しわい】川左岸の鶴松浜の所有権をめぐって一色村と通村の間に争論が発生した。時の山田奉行八木宗直は両村の所有権を認めず闕所として取り上げ,寛文12年山田奉行桑山貞政時代以降新田開発に着手し,鶴松新田を造成した(宇治山田市史)。また,幕谷八郎太夫は前川【まえのこ】の荒蕪地を自力で開発,年貢として毎秋1石2斗5升を村内に納入させた(伊勢度会人物誌)。戦国末期の北畠氏滅亡後,伊勢三座の1つ勝田座が度会郡勝田村より当村に移住,喜多流に付属し,竹ケ鼻村の青尾座が絶家してのちはその跡を兼ね,神宮に方固め,翁舞を奉納した。神宮奉納の順序は外宮においては一色村の和屋(谷)座が正月2日,勝田座が3日,内宮においては和屋座が4日,勝田座が5日であったが,明治4年神宮官制の改革とともに両座の法楽能は停止され廃絶した(宇治山田市史・伊勢市史)。明治元年度会府,同2年度会県,同9年三重県に所属。明治8年一色村とともに旧知学校を開設。同22年浜郷村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7366169