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中村(中世)


 平安末期~室町期に見える村名。伊賀国名張郡のうち。中村条とも。また仲村とも書かれる。天喜4年2月23日の藤原実遠所領譲状案に「一処 中村」とあるのが初見。四至は「東限山,南限矢川,西限宇陀川,北限供御川」とあり,現在の名張市丈六・檀・柏原から中村・瀬古口にかけての地域をさしたとみられる(東南院文書/平遺763)。藤原実遠が父清廉から伝領した所領の1つであるが,実遠の所領経営が行き詰まるとともに荒廃した。その後領主権は養子藤原信良,その妻当麻三子(実遠孫)と伝領されるが,延久6年に至り,矢川村とともに薬師寺別当隆経に売却され,隆経の死後は弟藤原保房が相続した(東南院文書/平遺1098・1168)。隆経のころより「中村庄」とも称したが,永保年間矢川荘とともに新立荘園として停廃される。保房はこの措置を「当時国司猥背先例,偏依令制止領主之進退,恣宛行他人,悉収公」したと,朝廷に訴え,応徳元年,官宣旨によりその領掌を認められた(東大寺文書/平遺1198・1210)。すでに実遠の時から黒田荘杣工の出作が行われ,東大寺の封戸物が便補されていたが,保房が伝領した11世紀後半になると杣工らは公民を誘い,私領主の得分である加地子や雑事を対捍するようになる。この動きは執拗にくり返され,12世紀前半にいたるまでたびたび加地子の弁済を命ずる国司庁宣と東大寺政所下文が出される(東大寺文書/平遺2261,内閣文庫所蔵伊賀国古文書/平遺2279)。さらに寛治年間には大中臣宣綱から寄進をうけたと称して,「金峯山先達法師原」が矢川・中村に乱入し,保房との相論となるが,朝廷では父朝方が実遠から両村を買得したとする宣綱・金峯山側の主張は認められず,保房の所領として安堵される(百巻本東大寺文書/平遺1327)。しかし,この領主権をめぐる相論は保房の子ら(実誉・中子・保源)が矢川・中村を伝領した12世紀初頭に再発する。今度は宣綱の子則綱が新たな寄進先に選んだ興福寺と,杣工支配を通じて出作地域に対する領有権を主張し,保房の子らの伝領を支持する東大寺との間で争われるが,結局東大寺側の主張が認められたようである(東大寺文書/平遺1738・1739)。なお,この相論で興福寺が支証文書として提出した貞観6年正月19日の藤原倫滋申文案に「中村郷」が見えるが,この文書は偽文書とみられる。その後保房の子らに分割して伝領されていた矢川・中村の領主権は順次東南院僧都覚樹の手に帰す。長承2年,残った藤原中子領の「中村庄」を大和国城上郡大神荘と交換した覚樹は,この年7月,矢川・中村・夏見条の所領田畠を立券する(東大寺文書/平遺2282)。この立券文によれば,所領田畠は黒田荘民の出作地である「黒田出作」と公民の耕作地である「公民作」とに分かたれ,「公民作」の分は「新庄」と称された。また「中村条」には青蓮寺分を加えて水田118町2反30歩(出作97町2反150歩と公民作20町9反240歩)と出作畠45町4反330歩の所領が存在したことが知られる。しかしこの立券の後も名張郡司源近国は矢川・中村の公民作田畠(定公田畠)に対する覚樹の領有を認めず抑留したため,藤原忠実家政所下文によりその企てを停止されている(東南院文書/平遺2295)。翌3年,「新御庄矢川・中村・夏見公畠」の検注が実施される。その取帳によれば,公畠合わせて53町6反180歩,そのうち得畠は17町5反半,所当の加地子は麦17石5斗5升であった(筒井順永氏所蔵文書)。応保2年8月,東南院恵珍僧都は矢川・中村の領主権が院外に渡ることを恐れ,手継文書を東大寺印蔵に納め,加地子得分のうち30石を「院家丗講供䉼」にあて,ほかは東大寺の寺用に用いることを定めた(東大寺文書/平遺3227)。出作も新荘もいずれも所当官物を国衙に納める国衙領であったが(ただし出作のばあいは便補された封物分を除いた残りを国衙に納める),東大寺の支配が浸透するにともない住人の未進・対捍が顕著になり,12世紀前半から中葉にかけて,国衙と東大寺との間で所当官物の率法や未進をめぐっての相論がくり返される。承安2年にいたり,時の知行国主平親宗が出作・新荘の所当官物を東大寺に免除,さらに同4年には「黒田庄出作并新庄」をながく寺領となす旨の後白河院庁下文が出される(百巻本東大寺文書/平遺3617,東南院文書/平遺3666)。いわゆる出作・新荘の一円寺領化である。翌5年,これをうけ東大寺は出作・新荘の所当官物のうち便補封物を除いた分を常住学生百口供料にあてることを決定した(東南院文書/平遺3674)。しかし,国衙側は出作・新荘の一円寺領化を認めず,以後も相論が継続される。その間にも安元2年,東大寺は出作・新荘の検注を実施した。それによれば,「中村条」の田地は出作96町5反50歩,新荘21町180歩,合わせて109町9反230歩であった(東大寺文書/平遺3781)。鎌倉期に入っても建仁年間ころまで国衙との相論は続くが,その後まもなく東大寺領としての確定をみる(東大寺要録/鎌遺2787)。鎌倉・南北朝期を通じて,売券などで田畠の所在を示すばあいには平安後期からの「中村条」がよく用いられるが,鎌倉後期にはいると壇・丈六など条内各村の分立が進み,現在の中村地区をさす「中村」の用法も多くなってくる。嘉元2年正月14日の黒田荘有得交名には壇・柏原・丈六・長屋村居住の有得人と並んで,「ナカムラ」の「キヤウフ太郎」の名があげられている(東大寺文書4-7)。また鎌倉後期に活動した黒田荘悪党では金王兵衛尉の縁者弥太郎入道,同じく平三郎左衛門尉の縁者彦四郎が中村の住人であったことが知られる(東大寺文書10/大日古)。室町期にはいり,郡内の年貢960石の納入を誓約した永享12年の郡内一族等連署起請文には則道以下7名の人物が「中村」の代表として名を連ねている(村井敬義氏本東大寺古文書)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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