名張郡

ナバリの地名は大化2年正月朔日の改新詔に「凡畿内は,東は名墾の横河より以東」とあるのが早い例(日本書紀,原漢文)。まもなく立評(郡)され,「隠駅家」も置かれた。壬申の乱では6月24日吉野より東国に向かった大海人皇子がこの地を通過。「日本書紀」によれば,「夜半に及りて隠郡に到りて,隠駅家を焚く,因りて邑の中に唱ひて曰はく,天皇,東国に入ります,故,人夫諸参赴,といふ,然るに一人も来肯へず」とあり,また皇子は横河で天に横たわる黒雲を占い,勝利を確信したという。朱鳥元年6月庚寅(22日)条には「名張厨司に災けり」とあり,天皇の食膳に供する魚・鳥類を捕獲する厨司が置かれていたことが知られる。この場合は名張川や宇陀川で年魚・雑魚などを捕えるためであろう。下って,神亀2年には大来皇女が父天武天皇の追善のために夏身に昌福寺を建立(醍醐寺本諸寺縁起集/校刊美術史料上)。現在も諸堂の礎石が残り,白鳳式や天平式の古瓦および磚仏の出土がみられる夏見廃寺がこれにあたると考えられる。名張の名を冠する豪族としては師木津日子の子孫と伝えられる「那婆理之稲置」,大彦命の後胤とされる「名張臣」の名が知られる(古事記・新撰姓氏録)。名張臣は当初郡司(評造・評督)であった可能性もあるが,奈良期から平安中期までは伊賀(朝臣)氏が代々郡領の地位に就いている(正倉院編年文書1/大日古,東大寺文書/平遺286)。また天平2年伊賀国正税帳断簡には「主帳外少初位上勲十二等夏見金村」の名も見える。夏見氏は平安初期にも夏見郷刀禰として登場する有力な氏族で,30基を超える円墳が密集する夏見古墳群はこの氏と関係があるとされる(光明寺古文書/日本塩業大系)。「和名抄」の訓は奈波利。同書による管郷は周知・名張・夏見の3郷で,郡衙は郡の中心地である現在の名張市中村に置かれたとされる。東は現在の名張市と名賀郡青山町の境界付近,南は奈良県宇陀郡高見山付近,西南は宇陀郡室生村長瀬の地内に比定される田野津(田野小津),西は名張川と西山(青葉山連峰),北は名張市田原の北部をそれぞれ郡界としたとみられ,宇陀郡曽爾村・御杖村,一志郡美杉村太郎生の地域も郡内に属した(光明寺古文書,東大寺文書/鎌遺1075・平遺279,東南院文書/平遺763)。このうち,名張市矢川・一ノ井以南が周知郷,丈六・壇から簗瀬・中村にかけてが名張郷,薦生から夏見を経て東南部の山間に至る地域が夏見郷にあたるとみられる。名張川・宇陀川流域の沖積平野では条里制が施行された。地割は名張市矢川から蔵持まで,特に宇陀川右岸に断続しながらも帯状に分布する(圃場整備前)。その方向は両河川の流路と軌を一にし,条は南東より,里は北西より数えたとみられる(矢川春日神社付近を起点に11条と3里を数える復原案も出されている)。なお,式内社は名居神社(名張市下比奈知)と宇流富志禰神社(名張市藤ノ木)の2座があり,この外鹿高神社(名張市矢川春日神社)は貞観15年に従五位下の神階を授けられている(三代実録)。9世紀,すでに郡内に多貴内親王(天武天皇女)や酒人内親王(光仁天皇女)領の墾田・荒野・栗林が存在したが,10世紀になるといくつかの大規模な所領がはっきりと姿を現してくる(東大寺文書/平遺286)。まず承平4年,伊賀国造の貢進にかかるという伝承をもつ伊勢神宮領六箇山(名張山)の四至牓示が打たれ,神宮は独占的な用益権を主張しはじめる(光明寺古文書)。また天暦年間には東大寺領板蠅杣の東四至が名張川まで拡張される。康保年間にいたり,勘解由長官藤原朝成家領(郡内の所領は薦生牧・墾田6町余・栗林3所・野地1所からなる)の立券にあたって,朝成家側の反論にあい,板蠅杣拡大の企ては一旦頓挫するが,名張・宇陀両河左岸の山麓一帯は杣内に組み込まれる(東大寺文書/平遺286・289)。一方このころ,宇陀川の河東では大蔵大夫藤原清廉によって墾田の買得や荒廃地を囲い込む形で所領の形成が進められ,やがてその所領は子の実遠に伝領される。実遠は本宅であった伊賀郡をはじめとして伊賀全体に膨大な所領をもっていたが,名張郡の所領は矢川・中村・簗瀬・下津田原の諸村(四至で表示される一円的所領)と常田村の墾田8町からなる(東南院文書/平遺763)。実遠は所々に田屋を構え,農民に功・食料・種子などを与え佃を耕作させる直接的な経営(私営田経営)を行い,「当国猛者」として「国内人民,皆為彼従者,所服仕也」といわれるほどの威勢を振るったが,やがて新しい村落形成の動きをみせるまでに成長した農民を掌握することができず,その経営は没落していく(内閣文庫所蔵伊賀国古文書/平遺1261)。実遠の没落と相前後して,11世紀中葉,それまでの行政単位であった郷(和名抄郷)は崩壊し,代わって矢川・中村・簗瀬・長屋などの村が新しい行政・所領単位として登場してくる。また譜第の郡司であった伊賀氏も没落し,このころから伊賀氏に代わって小野氏・猪氏・長谷氏が郡司として現れてくる(東大寺文書/平遺588・655・763)。一方,板蠅杣では山麓地域で杣工や公民の定住と田畠の開発が進む。11世紀に入ると,長元7年,杣の四至を公認し住人と杣工の臨時雑役を免除する官符が出され,ついで長暦2年には杣四至内の見作田6町余の所当の官物と杣工50人の臨時雑役が免除され,この地域は黒田荘とも呼ばれるようになる。さらにこのころから,「新従境越来開発常荒之輩,令免除雑役」という国衙の政策のもと,荘民の公領への出作が公民の黒田荘寄人化の動きをともなって進展し,また永承年間には夏見村などが興福寺領として立券される(東大寺文書/平遺1739)。こうして永承の末年には「管名張郡為興福寺・東大寺所領立券本田三百余町,見作二百町也,去今年官物未弁進合勺」という事態が生ずる(三国地誌/平遺701)。これに対して国衙側は新立荘園の停止でもって対抗し,黒田荘民との間に天喜元年・2年と2度にわたる武力衝突を起こす(天喜事件)。しかし天喜4年にいたり,黒田荘の国使不入・国役免除を認める官宣旨が出され,これにより宇陀・名張両河以西の黒田・大屋戸【おやど】村が本免田として確立し,黒田本荘が成立する(東南院文書/平遺789)。同時に荘民による河東の公領への出作も公認され,この地域に東大寺の封戸物が便補される。これ以降,荘民の出作は著しく,12世紀初頭には「彼庄本免田廿五町之外,出作公田三百余町」といわれるまでの広がりをみせる(東大寺文書/平遺2667)。これに伴い,国衙との間に官物率法(反別賦課額)をめぐる相論も執拗に繰り返される。黒田本荘が成立した天喜4年,実遠は伊賀国の所領を養子の藤原信良に譲ったが,治暦2年にいたり,簗瀬郷(村)は実遠の負物を償うため元興寺大僧都有慶の所領とされる(平遺763)。同年有慶は荒廃した郷の開発を企て,⑴3か年の間は地利を免除,⑵開発後は官物は国庫へ,反別1斗の加地子は領家(東南院に伝領)へ納める,⑶作手(下級領主権)は為延の相伝とする,という条件で丈部為延に開発を請け負わせた(東大寺文書/平遺1002)。為延は農民を組織し,名張川の旧河道に用水溝を修築して開発に成功。やがて簗瀬を本拠にし源と改姓したこの一族は,国見杣山麓の竜口と鷹尾をも私領に加え,簗瀬保司・名張郡司を兼任する郡内有数の在地領主(武士)に成長する(村井敬義本東大寺古文書/平遺1259)。12世紀に入ると,国衙は郡司の源氏(丈部氏)を利用して,黒田荘の寄人と化していた公民の再把握に乗り出し,公郷の在家を直接掌握する政策を打ち出す(東大寺文書/平遺1819)。これは荘民が雑役免であることを利用して出作地域に支配を及ぼしていた東大寺に対する反撃であったが,まもなく東大寺は荘官組織を整備するとともに,荘民を東大寺に服属させるための支配イデオロギー(寺奴の論理)を投入することによって,これに対抗した。つづいて長承2年には東南院覚樹が出作地域の矢川・中村両村の私領主権を獲得,さらに保元2年には黒田荘の現地支配を強化するため預所制が導入され,威儀師寛仁が現地に派遣される。寛仁は応保2年,国衙側の拠点として寺家支配の浸透に抵抗していた簗瀬保司源俊方の殺害を図り,軍兵300余人を率いて簗瀬に乱入し,俊方を逃亡させた(東大寺文書/平遺3221)。この事件により出作地域に対する国衙の支配を後退させた東大寺は承安4年にいたり,ついに後白河院庁下文により出作・新荘の一円不輸寺領化に成功する(東南院文書/平遺3666)。しかし,これを承認しなかった在庁官人らは興福寺僧や俊方と結び,寺領を転倒すべく乱入,この実力行使が失敗に終わった後も,東大寺との間で相論を続ける(東大寺文書/平遺3711)。平氏の台頭とそれに続く内乱の勃発は郡内の武士を変動の渦に巻き込み,寿永2年には平(服部)康行が源氏に加担し御家人に列せられ,所領を安堵された(東大寺文書/平遺4110)。またこの年,源俊方は黒田荘下司の一族である大江良直と合戦し,「追捕黒田一庄,焼失数百宇在家」と訴えられたが,さらに翌元暦元年には伊勢神宮領田原御園に乱入し,供祭所以下住宅を焼失,資財雑物を奪い取る事件を起こしている(神宮文庫所蔵文書/平遺補149,東大寺文書/平遺4197)。一方,平氏郎等で黒田新荘下司であった紀七景時はこの年,平田家継らの挙兵に加わり戦死を遂げる(東大寺文書/鎌遺133)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7366613 |





