林荘(中世)

鎌倉期~室町期に見える荘園名。伊勢国奄芸【あんき】郡のうち。林西荘という用例が多いが,林荘と同一。「民経記」寛喜3年10月9日条に「林西荘」と見える(大日料5-6)。北白河院(藤原陳子)領。公卿勅使駅家雑事賦課につき,北白河院より免除申請が行われている。建長2年の九条道家惣処分状(九条家文書/鎌遺7250)中,孫右大臣忠家に譲与された荘園群に「新御領」として当荘が見え,中御門三位入道後家尼寄進とあり,以後は九条家領となっている。永仁5年の「御所大番役定書案」(同前/鎌遺1504)では「しもうちの庄」「ひんこのちよくし」とともに8月の大番役勤仕が定められており,延慶2年の九条忠教遺戒(九条家文書19)では当荘奉行人として高倉前中納言経守の名が見える。経守には「臨時恩」に俸禄として与えられており,荘務権を本所が有したことをうかがわせる。時期は不明であるが,当荘地頭職は北条氏得宗家の手中にするところとなっており,幕末北条下総守直房が知行,没官されて建武2年,建武政府より伊勢神宮に寄進されている(御鎮座伝記裏文書)。同3年の左大将(九条道教)家政所注進当知行地目録(九条家文書23)には「領家職并加納」とあり,足利尊氏より安堵をうけているが,その後は所見なく,天正13年の九条家当知行并不知行所々指出目録案では不知行分中に入っている(同前40)。なお,文明4年の永源庵慶了,渡辺四郎五郎連署寄進状(内宮神官所持古文書/大日料8-6)には林東荘が見える。両人より荘内1反半,公方年貢9斗,加地子麦3石6斗(舛は売買舛)の地を内宮禰宜農正大夫守農に「一神主殿御祓散供米」として寄進(実は16貫文で売却)したものであるが,林東荘と林西荘(林荘)との関係は未詳。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367117 |