100辞書・辞典一括検索

JLogos

25

腹太村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。江戸期は伊勢国飯野郡・多気郡,明治8年からは飯野郡のうち。はじめ鳥羽藩領,寛永10年幕府領,同12年からは津藩領。集落は多気郡内にあった。村高は,「文禄3年高帳」261石余(うち多気郡116石余),「元禄郷帳」「天保郷帳」252石余(うち多気郡116石余),「旧高旧領」262石余。寛文8年の平高264石余(万定)。寛延年間の家数43・人数198,牛9(宗国史)。無足人2。神社は宇留布都神社。同社の祭神は埴安【はにやす】神。寺院は浄土宗東光寺。同寺の本尊の阿弥陀如来像は弘法大師作といわれ,この本尊を背負って盗み取った者が背の熱さに堪えかねて池に投げ込んで以来利益を失い寺もすたれたと伝えられる(松阪の民話)。明治4年度会【わたらい】県,同9年三重県に所属。同12年六根【ろつこん】・保津・魚見3か村との連合戸長役場を,同15年からは単独で戸長役場を置く。また同17年六根村ほか5か村との連合戸長役場に所属。明治8年の戸数35・人口194(男87・女107),牛18(松阪市史)。同9年の伊勢暴動では,戸長森田伊蔵と多数の村民が参加(県庁文書)。同16年の戸数33・人口201(男98・女103),牛18,産物は木綿168束・粳米178石余・糯米20石余・裸麦46石余・小麦29石余・大豆11石余・小豆1石余・菜種90石余・実綿1,654斤・種油33石余(松阪市史)。同22年機殿【はたどの】村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7367134