広瀬荘(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える荘園名。伊賀国山田郡のうち。広瀬村・広瀬杣ともいう。平家没官領として源頼朝が知行していたが,後白河上皇の要請で,阿波荘・山田有丸名とともに東大寺惣大工陳和卿に与えられた(東大寺要録)。文治6年2月10日の後白河上皇院宣案に「東大寺衆徒訴申伊賀国阿波・広瀬両庄地頭職事」とあるのが初見。同年東大寺衆徒の訴えにより地頭職も停廃され,一色不輸の所領となる(東大寺要録/鎌遺422,松雲公採集遺編類纂116/鎌遺497,東大寺要録/鎌遺501)。建久6年には宣旨により田畠と杣山の立券がなされ,同時に和卿の寄進にもとづき,年貢を東大寺浄土堂不断念仏用途料にあてることが定められた(東大寺文書/鎌遺1236)。田地は建仁元年3月日の在庁官人等解案によれば「広瀬村十八町」と見える(百巻本東大寺文書/鎌遺1191)。建久8年6月,他の重源ゆかりの寺領や堂舎とともに重源より東大寺東南院院主定範律師に譲られ,以後領家職は東南院に相承される(鎌遺920)。建仁元年在庁官人等は山田郡内の念仏堂(浄土堂)荘が新立荘だと訴え,東大寺との間で相論が争われるが,7月の記録所勘状は東南院と和卿の知行を認めている(鎌遺1236)。元久3年にいたり,陳和卿が重源に敵対し,広瀬荘などの押領を企てたということで,彼の知行が停止され,荘務権は領家の東南院に属すこととなる(山城随心院文書/鎌遺1613)。これ以後国衙側の反発にもかかわらず,まもなく寺領としての確立をみたようである(百巻本東大寺文書/鎌遺2240,東大寺要録/鎌遺2787)。南北朝期に入ると,北伊賀悪党の高畠(服部)持法・村木彦太郎・村田頼保等の押領が繰り返される。追捕を要求する東大寺の訴えも効果はなく,彼らは預所と号して荘内に入部し,年貢を奪い取るなどの濫妨を行った(東大寺古文書/大日料6-6)。室町期以降には東大寺領関係の文書に当荘の名は見えなくなり,退転していったとみられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367371 |