松坂城下(近世)

江戸期の城下町名。伊勢国飯高郡のうち。はじめ松坂藩領,元和5年からは紀州藩松坂領の城下町。紀州藩の当地周辺の所領は松坂領と呼ばれ,初めは代官による支配が行われていた。しかし明暦3年大久保四郎右衛門が,松坂・白子・田丸の伊勢3領を支配する城代となり,当地は紀州藩の伊勢国内の所領支配を統轄する重要な位置を占めることとなった。寛文12年には三の丸に城代屋敷が置かれた。城下町建設は蒲生氏郷によって行われ,松ケ島から町民の移住が行われ,また近江国日野町・伊勢国大湊からも移住させられ日野町・湊町がつくられた。城下町の繁栄を促すために参宮街道が町内にひき入れられることも行われた。城の北東から南東に沿って武家屋敷地があり,東の武家屋敷地の並びに町会所・大庄屋会所がある。武家屋敷地の外側に町人地があり,また北を流れる阪内川と南を流れる愛宕河川をこえた地も次第に町場化していく。そして北東部には寺院が集中的に配置された。明和6年の松坂町役所支配分限帳によると,本町・大手町・工屋【たくみや】町・湯屋町・紺屋町・矢下【やおろし】町・城坊小路・博労【ばくろ】町・外博労町の9か町の本町組,新町・桜屋町・黒田町・大工町・莚屋町の5か町の新町組,日野町・職人町・矢川町・鍛冶町の4か町の日野町組,魚町の魚町組,西町・極楽町・本川井町・新川井町の4か町の西町組,中町・職人町・観音小路・宝光院小路・常念寺小路・寺小路の6か町の中町組,湊町・平生町・白粉【おしろい】町・萱町・油屋町・櫛屋町・薬師小路・愛宕町・垣鼻【かいばな】町・塩屋町・愛宕門前町の11か町の湊町組,新座町・新規町・寡町・瓦町・鉄砲町・川原町の6か町の町廻り組の8組46町からなる。当時の人数は9,078人。「松坂権輿雑集」によると,縦19町余・横9町余,家数2,300軒余(隠居家は除く),人数8,300人(召仕は除く)。また人数のうち800人余は他国稼ぎをした。当城下には城下各町とともにそれに付随した町作地・町廻り地と呼ばれるものがあった。町作地とは,古田氏(松坂藩)時代に城再興のために人夫役を課せられた地が高負担に耐えられずに荒廃し,松坂商人に割り当てられて年貢地になった地のことで,田114町余・畑11町余の高1,811石余(松坂権輿雑集)。町廻り地とは,地籍上は村に属しながらも,城下に接して町場化した地のことで,その高は「文禄3年高帳」「元禄郷帳」204石余,「天保郷帳」261石余,「旧高旧領」375石余とある。当城下の安政2年の家数と人数(8歳以上)は,本町組196軒(外に4か寺)・538人(男264・女274),魚町組181軒・657人(男333・女324),中町組175軒(ほかに修験宗2軒と8か寺)・418人(男195・女223),湊町組461軒(ほかに修験宗1軒と6か寺)・1,440人(男660・女780),西町組242軒(ほかに修験宗2軒と2か寺)・788人(男373・女415),町廻り組300軒(ほかに修験宗3軒と1か寺)・877人(男402・女475)。また同年の鍛冶町は,101軒(ほかに2か寺)・230人(男100・女130)(人別切支丹宗門改帳)。伊勢商人の活躍は有名だが,当地からも早くは伊豆蔵・三井俊次,延宝年間頃までには長谷川・小津・中川・小野田などの諸家が江戸店を出すにいたっている。江戸で越後屋(現在の三越)を出し,のち三井財閥として発展した三井家は,当地出身の伊勢商人の代表例である。また,三井八郎右衛門・三井宗十郎・三井則右衛門の3家による三井組,長谷川治郎兵衛・小津清左衛門・長井嘉左衛門・殿村佐五平・坂田五郎兵衛の5家による御為替組,御仕入役所の手代を勤める二十人衆など,結束して営業の発展をつかむ者たちがでている。小津清左衛門・殿村佐五平らは正米問屋を経営し,小津清左衛門・長谷川治郎兵衛・長井九左衛門らは,明治初年に御仕入役所が融通方と改められた際に経営している。寛永10年には鳥谷九兵衛(秤屋)と下倉浄意とが私製紙幣である松坂羽書・雲出倉羽書を発行し,享保18年まで続けたと思われる。文政5年に松坂羽書発行の嘆願がなされて許可されると,三井組・御為替組による銀札会所が置かれる。明治3年までの発行高は,銀139万1,600匁(金25万両)にのぼるといわれる(松阪の町の歴史)。本町の木綿商小津家からは,国学者本居宣長がでており,その下から多くの鈴屋門人達が生まれた。火災には,延宝8年・元禄3年・享保元年・同10年・同13年・同14年・同21年・元文3年・寛政元年・同8年・明治3年の大火が記録に残されている(松阪の町の歴史)。寺院は,禅宗8・真宗高田派8・浄土宗7・真言宗5・天台律宗3・日蓮宗1の32か寺。神社には,牛頭天王・御厨神社・雨竜森・八幡宮・愛宕権現・天満宮・浅間大明神・山神などがある(松坂勝覧)。明治4年度会【わたらい】県,同9年三重県に所属。明治初年各町の合併が行われ,松阪を冠称する川井町・西町・本町・中野・魚町・殿町・新座町・新町・日野町・湊町・愛宕町・白粉町の12か町となる(町村分合取調書)。明治6年大手学校を開校,のちに殿町学校に改称。また日野町・新町・西町・本町・中町・湊町・愛宕町・魚町にも各1校を開校。同9年の生徒数は,殿町学校73(男50・女23),日野町学校77(男43・女34),新町学校212(男113・女99),西町学校132(男88・女42),本町学校86(男55・女31),中町学校87(男39・女48),湊町学校77(男46・女31),愛宕町学校73(男49・女24),魚町学校89(男50・女39)という(松坂地誌)。同16年各校を殿町学校に合併して,松阪小学校と改称。ほかに5分教場を置く。明治6年郵便局,同13年電信局を設置(同前)。「松坂地誌」によると,総反別は,明治5年153町余(田112町余・畑14町余・宅地26町余),同8年183町余(田113町余・畑15町余・宅地54町余),戸口は,明治8年3,367戸・1万92人,同16年2,767戸・1万1,244人,牛は明治8年5,同16年14,馬は明治8年・同16年4,車は明治8年人力車52・荷車186,同16年人力車130・荷車252・馬車6,また,業種別戸数は,農業102・工業313・商業1,141・雑業805・旅籠屋39・料理店34・貸座敷など,物産額は,米1,306石余・糯米46石余・裸麦519石余・菜種339石余・醤油50石余・煉油3万4,711斤・藍葉499貫余・清酒1,322石余・棒2,520本・傘4,262本・刻煙草6万5,800斤・瓦8万9,352枚・菓子箱9,515個・製茶6,819斤・味噌49石余・種油40石・蝋蠋1万460斤・晒木綿(松坂晒)1万2,020反・菓子1万9,402円・
3,592円・麩1,221円・糀1,515円・下駄4,108円・箸550円・サジ316円・線香449円・飴1,289円・栃苗20本。明治9年の伊勢暴動では,捕亡吏屯所・第9区扱所を打ちこわし,本町では三井銀行をはじめ66戸,中町では25戸が焼打ちにより焼失(松阪近代略史)。明治22年松阪町の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367727 |





