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箕田御厨(中世)


 鎌倉期~室町期に見える御厨名。伊勢国河曲【かわわ】郡のうち。建久3年の伊勢大神宮神領注文(神宮雑書/鎌遺614)に見える。内宮領,供祭物御贄米2石。注文によると仁平2年建立,文治2年不輸の宣旨が下されたという。「神鳳鈔」では50町,上分米3石,「神領納所記」では3石,此内1斗倉付,堅魚3連遣わすとあり,享徳元年「庁宣注文」では,堅魚1連遣わす代始3貫文持来るとの注がある。応仁2年7月,上箕田に本城を構えた世保(土岐)政康と北畠教具が会戦,政康の敗北したことが「応仁別記」「鎌倉大日記」などに見える。下って「信雄分限帳」に津田利助400貫文の前知行地として箕田が見える。のち上・中・下に分離した。なお,当地には箕田大功田なる所領があった。これについては寛元3年5月の渋谷定心置文(入来院家文書/鎌遺6485)中,四郎重経譲与分に「大功田」10町4反と見える。同4年の定心譲状(同前/鎌遺6656)によれば,この所はさしたる境もない出作田であり,重経分の他,乙御前給田1町があった。建長2年にも定心は課役を負担すべき重経分の「公事定田」数を定めているが,美作国河会郷2町3反を合わせて「公事定田」4町3反であった(同前/鎌遺7236)。同5年定心は改めて重経に当地を譲与(同前/鎌遺7648),同7年将軍家政所下文によって安堵をうけている(同前/鎌遺7874)。建治3年重経はこの地のうち2町を一期分として妻妙蓮へ,他を惣領重通に譲与,弘安元年幕府は重通譲与に安堵をしている(同前/鎌遺12861・13069)。正中2年渋谷氏庶流寺尾惟重の子重名と甥別当次郎丸とが当地1町以下をめぐって相論(清色亀鑑/入来院文書),嘉暦4年重名は亡父惟重遺領などを注進しており(入来院家文書),相論は長期にわたっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7367836