八幡町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は津城下の1町町人地ただし,地籍上は安濃【あの】郡津興【つおき】村・藤方村などの在郷に属する津城下に接して町場化したため,行政上は津城下の1町として扱われた宝暦元年の城下町名書上にも当町の名が見え,各種の町役や消防人足動員なども城下各町と同様に割り当てられている(津市史)岩田川河口の右岸部に位置する2代藩主藤堂高次が垂水村の千歳山にあった八幡宮を寛永9年に当地に移し,寛永12年に「八幡祭礼」を津町中に申し付けたことより,八幡町が興るという(累世記事)寛永9年9月に出した高次の諸公事免許状によれば,今度八幡新町を申し付けたところ,早々と人家が建ってきたので,永代諸公事を免許するとあり,はじめ八幡新町と称したことが知られる伊藤家古文書に,八幡町の立初めとして,寛永6年に3軒,寛永9年に64軒とあることでも,町づくりの迅速さがわかる戸口は,寛文5年732人,元禄14年1,121人(男509・女612),明治4年234戸・1,092人,明治5年238戸,明治12年248戸・1,133人結城の森に移建された八幡社は洞津【どうしん】八幡宮とも呼ばれ,藩祖藤堂高虎の霊をも合祀し,津城下の総鎮守社としたものである八幡宮祭礼は,歴代藩主の保護奨励もあって盛大な行事となり,現在の津市大祭に引き継がれている藩は,八幡宮に奉仕させるため寛永9年に租税諸役を免除したが,寛永12年に当町民の願いをいれて煙草専売の特権を与えた(宗国史)当町では,これにより煙草座を組織して営業は繁栄した明治維新後,煙草商社も設立されたが,明治4年安濃津【あのつ】県の誕生により,商社も特権も消滅してしまった寺院は松原寺があった明治5年3月,当町中央の溝川を安濃・一志2郡の郡界としたため,南半が度会【わたらい】県管轄となったしかし,同年5月郡界が更正され,当町全域は三重県へ編入するようになった同8年八幡学校が開校し,ついで開明学校と改称した同22年津市に所属同25年津市修成尋常小学校の第2分教場として開明学校会が使用された第2次大戦では戦災を免れたので,町並みに旧観を存している

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7368284 |