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葛川荘(中世)


 鎌倉期から見える荘園名。滋賀郡のうち。ただし古文書では高島郡葛川と称することもある(葛川C丙27)。本所は青蓮院,領家は無動寺。「葛川縁起」によれば,貞観元年,比叡山無動寺の僧相応が安曇川の源の清滝(葛川滝)に向かい不動明王を祈念したところ,老翁の姿をした志古淵【しこぶち】明神が現れて「限東比良峯,南黄之滝南行一里花折谷,西駈籠谷鎌倉峯,北右淵瀬」の地域を仏法修行の霊験地として提供することを申し出たという。「葛川縁起」は弘長年間にはすでに成立しており(葛川C丙33),ここに示された四至は中世を通じて主張され続ける。相応が葛川の地に息障明王院を開いた時に,僧侶とともに若干の俗人が移り住んだ。彼らは根本住人と呼ばれ,木を伐り炭を焼くほか,谷に沿って田畑の開発を行った。それらは当初垣内と呼ばれているが,やがて村として現れる。元徳3年9月日付の「明王院所当並散在年貢注文」によれば,葛川からは6石8斗9升2石の所当米が納められていたことがわかる(葛川A569)。しかし葛川住人の生計は木を伐り炭を焼くことによって立てられており,葛川をとりまく諸荘園との間に,山林の利用をめぐって繰り返し堺相論を引き起こした。比良横峰を境とする木戸荘・比良荘とは御殿尾滝山をめぐって,朽木荘とは右淵【にぎりぶち】郷をめぐって,久多【くたの】荘とは鎌倉峰の境をめぐって合戦に及ぶ相論さえ起こしている。中でも伊香立【いかだちの】荘とは,下立【おりたて】山の所属をめぐって建保6年以来相論を繰り返し,文保元年の相論の際には「葛川明王院絵図」が作成された。伊香立荘との相論は元応元年に下立山の境が確定されることによって(葛川A196)一応終息する。鎌倉末期には宮座の存在が知られ,上村・中村・下村がそれぞれ左右両座に分けられるとともに,惣荘6か村の神田が川合にあった(葛川A569)。ただし,当時あった地名がそのどれに相当するかは不明である。戦国期においては,坂下・木戸口・中在地・中村・坊村【ぼうむら】・待居(井)【まちい】・榎【えのき】・温井【ぬくい】・細川【ほそかわ】の村名が知られ(葛川A519),このほか高野・大舟・落合の名も知られる。慶長元年12月3日,豊臣秀吉は坊村・榎村半分を合わせて73石を延暦寺に寄進した(葛川A861)。慶長2年の検地帳(葛川A572)によれば,坊村は田畑屋敷等6町3反4畝20歩で29石4斗,榎村は田畑屋敷4町4反8畝15歩で43石6斗5合となっている。残る榎村半分は幕府領となり,坂下・木戸口【きどぐち】・中村以下の諸村は堅田陣屋の一部として堀田氏の支配下に属した。現在,大津市葛川平【だいら】・坂下町・木戸口町・中村町・坊村町・町居【まちい】町・梅ノ木町・貫井【ぬくい】町・細川町・右淵平。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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