天田郡

天平19年9月26日の勅旨に「丹波国天田郡五十戸」とあるのが初見(東大寺要録)。大きさは中郡に属した。ついで「続日本紀」天平神護2年6月日条に「丹波国天田郡人家部人足」が見え,同書同年7月26日条に「散位従七位上昆解宮成得似白鑞者以献,言曰,是丹波国天田郡華浪山所出也」とあり,華浪山(瘤木【こぶのき】にある花並山)から出た白鑞【はくろう】(銅合金)を朝廷に献上している。また,同書宝亀4年9月20日条に「丹波国天田郡奄我社有盗,喫供祭物斃社中,即去十許丈,更立社焉」とある。また同書延暦4年正月日条に「丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麻呂」が見える。古代条里制遺構は,福知山盆地の水田地帯に見られ,福知山市上天津に八ケ坪,戸田に一ノ坪など坪割の名残と推定される坪名が現存する。また文永7年10月20日の左衛門少尉中原某寄進状に「嶋田里廿三坪一段 竹田,山田里十五坪五段 木梨子」と条里制の遺制が残っていたことが推定される(観音寺文書/福知山市史史料編1)。次に平安期になると,大同3年の撰述という日本最初の医書「大同類聚方」に「神野薬丹波国天田郡領鉾執之家爾伝方」とあり,「延喜式」にも「丹波国〈駅別稲三束,但氷上・天田・何鹿三箇郡十三束〉」とある。また「和気氏系図」には「康頼居丹波天田郡,因賜姓丹波宿禰」と記されている。郡内の郷については「和名抄」に六部【むとべ】郷・土師【はじ】郷・宗我部【そがべ】郷・雀部【ささいべ】郷・和久【わく】郷・拝師【はいし】郷・奄我【あんが】郷・川口郷・夜久【やく】郷・神戸郷の10郷が記されている。式内社には生野・奄我・天照玉命・荒木の4座があったが,いずれも福知山市内に現存する。丹波国は古くから大嘗会の悠紀および主基国として斎田が設定されてきたが,天田郡に主基の斎田が設けられた初見は寛和元年であるが(日本紀略),寛弘8年にも再び主基に卜定された(御堂関白記,同年8月15日条)。大嘗会の時には,殿上の歌人が悠紀・主基両国の名所を歌題として祝歌を詠み,屏風に瑞景を描いて宮中に奉納しているが,天田郡の名所としては豊富村・花並【はななみ】里(福知山市)・湊岡【みなとおか】・鷺杜【さぎのもり】(未詳)・千束橋(三和町)などがある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7373446 |