荒草(中世)

南北朝期から見える字名。山城国愛宕【おたぎ】郡岡本郷のうち。荒草坪とも称した。賀茂別雷神社領。康暦元年後4月3日,賀茂氏女田地売券に「合壱段半者〈在所荒草〉」とあるのが初見(大徳寺文書4-1775,ほかに関連証文8通がのこる)。宝徳3年4月7日,岡本郷地からみ帳(写)に「〈次ノ西,アラ草東ノ〉一反 貴布禰祝田 作人右馬助」以下,同一の字に属したと見られる10筆9反半の田地が記されている。同様に享禄5年3月28日の同郷検地帳には「〈アラクサノカシラノ木〉一反半 猿千代持 同(民部丞)作」以下10筆1町小が見え,天文19年11月18日付検地帳には14筆計7反250歩の田地が「荒草坪」としてまとめられている(賀茂別雷神社文書)。これら検地帳の地図上復元の結果,宝徳・享禄両検地帳所載の田地各10筆は,ほぼ現在の北区上賀茂荒草町東部,天文検地帳所載の14筆は同町西部にそれぞれ相当する(ただし,いずれも上賀茂藪田町域の一部を含む)ことが明らかになった。応仁元年4月写の賀茂社往来田古帳にも「荒草」所在の2反が見える(同前)。また,座田文書の享禄2年12月13日付肥前守保広・下野守保武連署作職売券案には,「合壱段者岡本郷之内〈在所字アラクサ,堀大道ノ東ノハタニ在之〉」と見え,文禄5年8月11日,遠江守賀顕証状には「当所南辻子のくち西あら草ニ,其方之田地之したに在之ミそ,永代其方へ参候」と記されている。現在の上賀茂荒草町・上賀茂藪田町の中央部を通り太田神社に至る「大道」を以て,「東荒草」「西荒草」に分かたれていたと思われる。天正17年霜月10日,賀茂検地帳には,「あらくさ」と肩書した田地が,2か所にわけて上田14筆・中田3筆計1町1反2畝18歩書き上げられている(賀茂別雷神社文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7373503 |





