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伊勢田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。久世郡のうち。村高は「正保村高帳」で1,129石余,「元禄郷帳」で1,050石余,「享保村名帳」は1,080石余,「天保郷帳」「旧高旧領」はともに1,084石余,幕府領(元禄村別領主帳),享保期には桜井孫兵衛代官支配(享保村名帳)。幕末期には京都守護職役知(旧高旧領)。延宝検地帳と絵図によれば,屋敷地117筆は地内毛語【けご】に集まり周囲に水路がめぐらされている。集落の東側は一部茶園地の畑地,屋敷地近くは上畑,離れるに従い中・下・下々畑と等級が下がる。集落の西側は水田が広がり上田が多く見られる。当村の北東部大和街道沿いに,古検なしと記される延宝期までの新開畑78筆がある。これらの等級は下々畑。なお同街道の東にある宇治郷の羽拍子にも8筆の新開畑があり,ほかに6筆の飛地がある。飛地は当村枝郷安田村の大納言にも8筆見られる。当村は巨椋池の南岸に位置するため,遊田【ゆうでん】堤・浮面【うきめん】堤・十二堤などの破堤・崩所による水損やその修復普請におわれたという。正徳2年には本田だけでその93%が水損の被害にあっている。この巨椋池では古くから小倉村・東一口【ひがしいもあらい】村・伏見弾正町の漁師が漁業を行ってきた。正徳年間から享保初年にかけて彼らと当村・伊勢田新田・枝郷安田村の間で争論が起きている。3か村の池沿い500石の田地大半が常水となるため漁師は魞簀を立てるようになり,当村などはこれを差し止めようとした。享保3年漁師側勝訴の裁許がなされたが,文化8年に再燃している。なお巨椋池では鳥猟業も行われており,同村に接する各村では小物成の鳥猟年貢を納めた。当村も天明7年より新規に銀17匁余(のち19匁)を課せられている。当村の狩猟の中心は鴨類で,問屋のような役割を果たしていた当村の半兵衛家へ集められ,京・伏見へ売りに出された(宇治市史)。神社に梵天王社・八幡大神宮・作田大明神・住吉明神・大松野神社,寺院に浄土宗浄土院末来迎寺がある(同前)。梵天王社(伊勢田神社)は延喜式では小社に列せられた有数の古社であるが,近世以降は当村の産土神として崇敬された(新撰京都名所図会)。明治元年京都府に所属。同5年の戸数98(市町村合併史)。「府地誌」によれば,田80町余・畑31町余,戸数128・人数587,物産に製茶を掲げる。同21年の戸数135(市町村合併史)。同22年小倉村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7373742