一乗寺村(近世)

江戸期~明治22年の村名。愛宕郡のうち。「京羽二重織留」によれば,家数82,ほかに寺6,村高1,820石余,うち1,621石余が堂上方入組,ほかは栂尾領58石・高尾領28石など計14の寺領が掲げられている。「正保村高帳」では村高1,833石余,「元禄郷帳」では1,813石余,「元禄村別領主帳」では,仙洞御料・曼殊院門跡領・九条家領以下15の公家領,神護寺領以下13の寺領。「享保村名帳」では村高1,864石余,霊元法皇料28石余・曼殊院宮領306石余のほか15公家領と15寺領と計32か領の入組み。「天保郷帳」では村高1,877石余。「旧高旧領」は1,868石余となり,円光寺領2石余が加わり計33か領の入組み。小物成には,二条城上納藪年貢6寸廻り119本・5寸廻り101本・束竹1尺8寸縄〆25束と玉虫左兵衛代官支配山役柴864束代銀206匁があった(享保村名帳)。村内には慶長9年,剣客の宮本武蔵と吉岡清十郎の弟と門弟が決闘したという伝説で有名な下り松がある。また,後奈良天皇の皇子覚恕法親王の墓をはじめ,親王・内親王の陵墓が4基ある。寺院には門跡院の曼殊院,平安京の鬼門守護神として桓武天皇の勅願になる狸谷山不動院,石川丈山の山荘詩仙堂(丈山寺)などがある。そのほか古寺や草庵,それに旧跡寺院も多く,信仰の地でもあった。幕末の安政6年には三条実美の父実万(忠成公)が一時幽居した地としても知られる。なお,村内北部を北出,中央部を藪里,南部を舞楽寺と称していたが明治初年に合一。明治元年京都府に所属。同5年の戸数178(市町村合併史)。「府地誌」によれば,田61町余・畑13町余,戸数171・人数1,015,うち男500・女515,牛5・馬52。特に近郊農村地帯として蔬菜の栽培が盛んであり,物産には菜種がある。同21年の戸数211(市町村合併史)。同22年修学院村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7373770 |





