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観音寺村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。丹波国天田【あまだ】郡のうち。はじめ福知山藩領,寛永10年からは綾部藩領,寛政12年には大部分が幕府領となる。村高は,「正保郷帳」で890石余,うち田595石・畑295石,日損所がある。「丹波志」では890石余,うち小物成30石余(無地高),民家120戸。なお天保11年「巡察記」による綾部藩領分は,田3町余・畑1町余,高76石余(うち11石余は無地高),家数13・人口50,牛5。のち村高は,「天保郷帳」で878石余,「旧高旧領」で同高,うち幕府領久美浜代官支配786石余・綾部藩領92石余。「丹波志」によると当村は「往古何鹿郡ノ内,下高津ト云也,時ニ今ノ興村ハ支ナリ」という。なお「正保郷帳」にも,絵図には何鹿【いかるが】郡に入れていること,幕府から綾部藩主九鬼氏への帳面には天田郡内となっていることの記載がある。また城跡に,城主は大槻将監という観音寺山城,古跡に朝倉義景墓がある。「丹波志」姓氏部には,朝倉氏・玉井氏・上原氏・塩見氏・村上氏などが見える。うち庄屋もつとめた朝倉氏の先祖は但馬国より出,越前国に住み,朝倉左衛門督義景討死に後に子孫が当地に住みついたと伝える。寺院に真言宗高野山末補陀落山観音寺がある。同寺内には天正の頃8院があったが,寛政頃すでに多門院・大聖院を残すだけとなる。元和2年福知山藩は,同寺に対して竹木伐採,同年法華経一千部転読の間,甲乙人狼藉・喧嘩口論・国質郡質・商人諸公事付押売押買などの禁止を下している。さらに綾部藩治政下では,寛永11年同寺の福地院・多聞院に山林竹木伐採の禁止,寛文10年には同寺大聖院へ土地の寄進があった。しかし,寄進地は未開墾地のため,のちに苦心して水田化を行っている。総じて同寺は元禄以降,衰微し,諸坊も減っていった(観音寺文書)。幕府領は明治元年久美浜県,同4年豊岡県を経て,綾部藩領は同4年綾部県を経て,同9年いずれも京都府に所属。同21年の戸数130(市町村合併史)。同22年西中筋村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7375522