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熊野郡


慶長5年12月,細川忠興が豊前中津へ転封,京極高知が丹後5郡12万3,200石を拝領した。同年12月17日当郡宗雲寺宛て京極高知禁制がある(宗雲寺文書/両丹地方の禁制23号)。慶長7年検地が実施され,丹後5郡で村数292・小村数106・高12万3,175石,熊野郡は村数41・小村数11・高1万5,546石余とされた。この年の郷村帳で,佐野荘・鹿野荘は,なお荘名を近世地名に遺存した。元和8年,丹後は宮津藩・田辺藩・峰山藩の3藩に分かれたが,この時,熊野郡は全郡宮津藩に属した。宮津藩は,寛文6年京極氏除封以後,譜代大名の更迭が繰り返されるが,永井氏時代,延宝3年には全郡53村・1万5,546石余が,阿部氏時代,天和元年にも全郡53村・1万8,274石余が,奥平氏時代,宝永2年には27村・8,842石余および拝領後改出新田26石余が,宮津藩に属したが,その余の時期,その余の地域は幕府領に属した。享保2年青山氏の宮津藩入部以降は,宝暦13年~天保6年の間,当郡のうち12村・7,105石余が但馬出石藩に属した(御料所旧記付録)ことを除いて,全郡が幕府領に属し,明治期に至る。これよりさき延宝8年宮津藩永井氏改易の後,幕府による検地が行われ,全体で約3割の増石をみたが,当時宮津藩領であった当郡全53村もその対象とされ,2,728石余(17%余)の増石があった。そののちは幕末に至るまで顕著な石高変化はみられない。郡全体の村数・石高は「元禄郷帳」で53村・1万8,885石余,「天保郷帳」で53村・1万8,979石余,「旧高旧領」で54村(53村の誤り)・1万8,333石余。熊野郡53村における万延元年より5か年平均の年貢納高は,米3,498石余,銀183貫余(1両銀75匁替),小物成銀23.6貫余,諸運上銀507匁余,諸冥加銀251匁余(熊野郡誌)。なお,丹後国における幕府領は,寛文6年には但馬国生野代官所管下で加佐郡波美村の陣屋に(京極氏旧領分),延宝8年には同じく与謝郡日置村の陣屋に(永井氏旧領分),元禄10年には近江大津代官所管下で熊野郡湊宮村の船番所に支配されたが(1万450石余),正徳元年に京都代官所に移管され,享保2年には湊宮陣屋と称して,158村・5万2,606石余,9,346軒・4万2,086人を支配したという(御料所旧記)。また,享保2年波美村,同4年日置村を経て湊宮村へともいう(新井家文書/久美浜町誌)。ついで享保20年,代官海上弥兵衛のとき,久美浜村に陣屋を建立して湊宮陣屋から引越した。宝暦9年には丹後5郡のうち126村・4万余石,7,277軒・3万2,449人,同13年には同じく107村・3万3,501石余,7,123軒・3万2,646人を支配した(御料所旧記)。また寛政11年「丹後但馬美作国村々新高帳」によれば,丹後分107村・3万3,500石余のほか,但馬分85村・1万9,017石余,美作吉野郡35村・1万293石余をあわせて,合計227村・6万2,813石余を久美浜代官所が支配した(新井家文書/久美浜町誌)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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