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下京(近世)


 洛中の下半分を示す汎称。平安京は朱雀大路を中心に,東の左京,西の右京に分けられていたが,早くから右京は田園化し,市街化は左京の伸張により果たされていった。この市街域に対して,商工業の発展に伴う都市機能の分化を背景に,13世紀に入ると「上下【かみしも】町中」,また14世紀末から15世紀初頭にかけて「上辺」「下辺」に二分する表現があらわれてくる。さらにほぼ同時期には上京・下京の呼称も一般化してきた。この人々の意識に生まれた区分はほぼ二条通をもって境をなしていたと思われる。二条通以南の下京は,上京域と異なり商工業者の町としての性格を有していた。なかでもその繁栄の中心は現在も祇園祭に山・鉾を出す三条から四条にかけての地で,時代が下るにしたがい四条以南へ商業中心地帯は伸張していった。逆に鎌倉期に商業街としての発展を見せていた七条のあたりは衰退しつつあった。応仁の乱を経て法華一揆が戦われる16世紀に入ると,町衆の自衛・自治の動きが起こり,その組織として町組が結成されるに至った。この町組には中組・西組・巽組・艮組・七町半組の5つが知られ,これら町組はさらに結合して「下京中」を形成,総代などを中心に運営されていた。この町組の中核は,四条町の辻を中心に結成された中組であった。艮組は中組の北,西組は西方に位置し,巽組や七町半組については知りえないが,中組の東に編成されていたかと思われる。このように5つの町組は中組を中心に地域的なまとまりを有していたが,一部二条通まで伸びるものの,南北にはほぼ三条通から松原通あたりを占めるにすぎなかった。松原通以南は人家もまばらな田園風景を見せていたと思われる。このことは応仁の乱や法華一揆の戦火からの復興が,経済的条件の整った四条通一帯から進んだことを示していよう。松原通から七条にかけての市街地化は,豊臣秀吉の都市改造から江戸期にかけて達成されていった。まず御土居が築かれて洛中の範囲が決定されたが,同時に都市空間の有効な活用を目指して,南北に細長い短冊型町割が施行された。さらに天正19年六条堀川の地へ本願寺還住が行われ,慶長8年には烏丸六条の地に西本願寺が創設された。東・西本願寺の成立は六条から七条にかけての市街化を促すこととなった。いま1つ市街化の原動力に遊廓があり,二条柳町から六条三筋町,さらに朱雀野の地に移転され,それぞれの地一帯の市街化に拍車をかけていった。町組は,表通りに面する間口の広い町家を有す上層町人の親町に,市街発展を示す小さな間口からなる新町を編入して構成されていた。新町は徐々に既成町組へ吸収されていったが,織豊期は先の五町組編成が継承され,町組自体の分割再編は江戸期にかけて進められた。江戸初期の寛文年間までには,巽組・三町組(もと東組)を除いて,川西組・仲組・艮組が2つに分かれ,江戸期の下京八組が成立。またこのころには,下京の町組には属さないが,先の東・西両本願寺の寺内町町組(東寺内2組・西寺内9組)も整備された。江戸期の町組も,古くからの格式を有す親町群と新町群を数か町から数十か町に分けた小組からなっていた。親町群の小組が1つである点は,上京十二町組が各組ごとにいくつかの親町群の小組を有していたことと比して,新シ町などの小組数が多いこととともに特徴となっている。これら小組の分布は一定の地域的まとまりを持たず,多くの飛地の集合形態として町組があることが多く,八町組の各範囲は複雑な錯綜を見せている。なお下京八組の名称は,上艮組(親町組のほか新シ町組など小組6)・仲十町組(同1)・三町組(同6)・仲九町組(同1)・川西十六町組(同10)・巽組(同11)・南艮組(同9)・川西九町組(同26)である。一方,江戸期を通じての市街化の波は御土居を破却しその周辺農村域に洛外町続町を数多く成立させていった。特にその動きは,鴨川四条河原に顕著で,寛文10年には大和大路を中心に祇園外六町,正徳3年には祇園内六町が正式に開かれ,同地一帯の芝居小屋を中心に茶屋などが軒を並べ遊興街のにぎやかさを誇った。また方広寺・清水寺・建仁寺・知恩院など社寺門前にも多数の洛外町続町が形成されていった。また南域の中堂寺・西七条・西九条村域もその例外ではなかった。これら各町のうちには下京の町組に編入されたものもあるが,大半は洛外として雑色の支配下に置かれた。明治元年京都府に所属。同年府の通達で「町組五人組仕法」により町組改正を実施。改正内容は下京を下大組と唱え,三役を廃して大年寄を置き,古町・枝町・離町などの名称を廃し,およそ20町を1組に組み合わせて小組とするのを基本に下京何番組という番号をつけ,1組に中年寄・添年寄を1人ずつ置くというものであった。五人組も復活させ,5軒または4~7,8軒で1組を構成し,下京1~41番組を編成。しかし町組が入り組んでいるため小学校建設に支障をきたし,同2年再び町組改正が実施され下京1~32番組となる。同5年の町組改正では番組を区と改め,大年寄・中年寄・添年寄などを廃して区長・戸長などを置き,下京第1~32区となる。同9年東海道線が大阪~京都間に開通し,京都駅が仮営業開始。同12年には区を組,下京を下京区と改める。同21年愛宕【おたぎ】郡今熊野村・清閑寺村を編入し,第33組を設置。同22年市制町村制実施に伴い京都市の区名となる。京都市の成立とともに各組戸長を廃止し,行政と学事を分離,なお同25年組を学区と改め,下京区第1~32学区となり,同35年には葛野【かどの】郡大内村西九条の編入に際して同地に第33学区を設置。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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