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下久世荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。山城国乙訓【おとくに】郡のうち。現在の京都市南区久世中久町・久世中久世町・久世殿城町にあたる。乙訓郡11条の牛甘(牛牧)里の3~36坪(ただし13坪は他領),同じく河寄(川依)里1~12坪,乙訓郡12条の久世里1~36坪,同じく笠甘(笠鹿)里1~6坪にあり,最大は東西8町,南北12町の条里制村落である。「和名抄」には「訓世郷」という郷名が見えるが,この地はその後の開発によって,上久世荘・下久世荘・東久世荘(築山荘)・本久世荘(大藪荘)に発展・分割されたものと考えられる。治承4年5月11日皇嘉門院惣処分状(九条家文書)には,「山しろ くせ」と見え,九条兼実がその所領を宜秋門院に譲った元久元年4月23日九条兼実置文にも最勝金剛院領として「山城国久世庄」とある。これらの所領はのち九条道家に引き継がれ,道家は建長2年11月惣処分状(同前)によって,それを宣仁門院(藤原彦子)以下に処分しているが,ここには最勝金剛院領として久世荘が,また一条実経に譲られた所領としても久世荘が見える。この久世荘は「荘園志料」以下の多くの論著では久世郡久世荘に比定されるが,のち下久世荘となったものである。すなわち応永4年5月下久世荘内本所領田数注進状には,九条家領として9反60歩,一条家領として1町2反が記載されている。下って応仁2年2月28日には,幕府は一条家の補任の旨にまかせて,中井孫太郎・石井次郎三郎に久世荘代官職を沙汰せしめている。当時,幕府も任地の情勢を細かくつかんでいなかったらしく,同年3月2日に東寺奉行清貞秀は,この久世荘というのは東寺領の間違いではないかと東寺に照合している。これに対する東寺の返事はわからないが,同じような問い合わせが一条家へも行われたらしく,同年3月2日付で一条家雑掌町に顕郷が「只今被申候者,西岡散在候,庄号久世にて候,古来家門御領候,上分春日社御寄進之上者」(教王護国寺文書)と返答しており,九条家・一条家の所領としての久世荘は「西岡散在」すなわち当地と考えるのが妥当である。はやく文治元年11月15日の藤原国成の譲状案には「下久世郷」と見え,弘長3年5月21日僧長尊田地売券には「下久世村」と見えるが,荘名の初見は藤原永弘に「下久世荘公文職」を安堵した正応5年2月日付の地頭政所下文案である。久世上・下荘は鎌倉期の末頃には得宗領として北条氏の支配を受けたが,建武3年7月1日,久世上・下荘地頭職を足利尊氏は東寺鎮守八幡宮に寄進,以後当荘は戦国期にいたるまで東寺領荘園としてその支配を受けた。応永4年5月の東寺八幡宮領下久世荘田数注進状と下久世荘之内本所領田数注進状によると,その総田数は68町1反187歩である。また貞治2年2月16日の下久世荘畠名寄坪付注進状には畠10町7反40歩が記載されており,当荘の総耕地面積は78町余となる。東寺はこの荘園の地頭職を有したとはいえ,その内部の領有関係は複雑で,典型的な入り組み散在の状態を示し,東寺が一円支配する田地(本田)は11町7反余で,ほかはすべて別の本所の所領である。そのうち修理職田以下17の本所領は東寺が地頭加徴米を徴収しうる田地で,その面積は27町である。そのほかは東寺の支配とは直接関係のない采女田・左馬寮田など20の本所領で,面積は29町3反余である。東寺の支配と直接関係のない29町3反余のうちは大炊寮の御稲田1町240歩があり,これが「師守記」に見える「乙訓上村御稲内久世村」(貞治元年11月5日条)あるいは「下久世御稲」(貞治3年9月18日条)である。南北朝期以降,この荘園の東寺に対する所定の年貢は59石5斗7合で,公事銭は15貫450文であった。この荘園の開発領主は,おそらく前述の文治元年11月15日の譲状案に見える藤原氏であろう。藤原氏は正応5年以降,当荘の公文職を相伝しているが,また下司職を有する大江氏もいた。足利尊氏が九州より上洛するや公文藤原広世・下司大江広綱はその配下にはせ参じ,その戦功の賞として上久世荘公文真板仲貞と同じく,建武3年7月11日,この地に半済を与えられて幕府の御家人の列に加えられた。しかし暦応2年に至り,東寺の訴えによって半済が停止されるや,彼らは幕府御家人をはなれて東寺の荘官となり,公文・下司としてあいならんで当荘の荘務にあたることとなる。この間の荘民その他の動きは,ほぼ上久世荘の場合と同じであるが,注目すべきものとして戦国期の用水相論における下久世荘公文久世弘成の活躍がある。桂川沿いのこの地域にあっては,南北朝期以降,灌漑用水をめぐってたびたび相論が見られた。戦国期になると,西岡の上久世・下久世・大藪・牛ケ瀬・三鈷寺の西岡五か荘と,東岸の石清水八幡宮領西八条西荘との間に用水の取入口をめぐって激しい争いが起こった。明応4年8月,西岡五か荘は西荘が五か荘の用水取入口を違乱すると幕府に訴えてでた。かくしてこの問題は法廷で争われることになるが,三問三答を経て,翌明応5年5月には幕府奉行人飯尾清房邸において対決することになった。五か荘側からは各荘の代表5人および東寺の雑掌2人が出頭したが,特に久世弘成は五か荘を代表して弁舌あざやかに対決にあたり,臨席の幕府奉行人をして近来稀に見る応答であると賞嘆せしめたといわれる。その後も用水に関する相論はあとをたたないが,これらの行動を通じて,荘園というせまい支配の枠をこえて,広く地域的な結合が形成されつつあることを知るのである(以上,東寺百合文書)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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