下三栖村(近世)

江戸期~明治22年の村名。紀伊郡のうち。村高は,「正保村高帳」では694石余,「元禄郷帳」「享保村名帳」で825石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では850石余。慶長6年,徳川家康が禁裏御料として献上した約1万石に当村の一部も含まれている。「元禄村別領主帳」では,禁裏御料・女院領・宰相典侍局領・内侍所領・中御門家領など4公家領・禁裏役人知行地・若宮八幡社領・法伝寺領・金地院領・勝宝院領。「享保村名帳」の領主別内訳は,禁裏本御料33石余・仁和寺宮領11石余・内侍所領41石余・白川家領8石余・飛鳥井家領50石余・中御門家領58石余・権典侍局領12石余・大外記知行地15石余・出納東市正知行地14石余・多上野之助知行地22石余・内竪丹後守知行地8石余・大隅大炊頭知行地8石余・高橋采女正知行地5石余・法伝寺領38石余・若宮八幡社領26石余・金地院90石余および幕府領玉虫左兵衛代官支配378石余。「旧高旧領」では,元禁裏御料・元内侍所料・中御門家領・白川家領・新典侍局領,多・大隅・高橋各氏知行地,若宮八幡社領・金地院領・法伝寺領は変わらず,幕府領小堀数馬代官支配は453石余となり,その他,押小路師親知行地15石余・平田職教知行地14石余・高屋康功知行地8石余・勝法院領11石余。天保期の飢饉が当村に与えた打撃は大きく,天保6年の飢人数書上帳(糟野家文書)によると,高401石余・人数295のうち飢人数287といい,「府地誌」の当村の戸数25・人数136の減少にまで尾を引いている。社寺に三栖神社,明応2年僧勝恵開基で享保元年僧恵忍中興と伝える浄土真宗本願寺派光現寺がある。明治元年京都府に所属。「府地誌」によると,反別田52町余・畑3町余,日本形船20・漁船23を有する。物産に葭・蓮根・川魚があり,伏見・京都へ輸送した。同22年横大路村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7376915 |





