鐘木町(近世)

江戸期~明治22年の町名。明治14年から伏見を冠称。伏見町のうち。南組本町17町の1つ。本鐘木町ともいう。南北に通る新町通の1筋西の通りにあり,本材木町の北隣りに位置する。文禄年中に開かれ,豊公伏見城ノ図では,道路の東側北部は町家があり,南部には丹羽五郎左衛門長重の屋敷が見られるが,西側はすべて町家の区域である。伏見城廃城後は武家屋敷は姿を消し,寛文10年山城国伏見街衢並近郊図では町家地として「しもく町」と記されている。また,伏見北部の撞木町とまぎれやすいことから本鐘木町とも呼ばれたが(伏見鑑・泰平俯見御役鑑),維新前伏見管轄図では鐘木町と戻っている。町名は,油掛通が南北通の当町へ突き当たり,形が鐘木のようであったことにちなむ。江戸中期以降,馬借役人が多く居住(新市域各町誌)。町内には江戸飛脚の吹田屋長兵衛,生間流料理を営むつい庄八(伏見鑑),造酒家笠置屋治右衛門(天明八年御尋正徳年中以後造酒内訳書・寛政九年造酒屋株帳)が居住。明治4年には伏見郵便取扱所が置かれ,同12年伏見郵便局と改称,同13年板橋2丁目へ移転した(伏見町誌)。天保頃の軒数は48軒(伏見町誌)。明治元年6番組,同5年伏見第15区,同7年第4区,同12年伏水第5組に所属。同14年1月紀伊【きい】郡第9組,同年10月南浜町外34か町連合のうちとなる。同22年伏見町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7376993 |