神童寺村(近世)

江戸期~明治22年の村名。相楽郡のうち。「府地誌」に「子,旧ト寺ニ作ル」「本村古ヨリ北吉野ト称シ,上狛郷ノ属邑タリ。白鳳四年乙亥ニ至リ,村内ニ神童寺ヲ創建スルヲ以テ,爾後遂ニ冠ラシムト云」とある。江戸期に北吉野の別称をもっていたこと,神童寺と記されていたことは諸書に確認されるが,「元禄郷帳」「五畿内志」などでは神童子とも書かれており,「寺」と「子」は併用されていた。「四面皆山ニシテ,土地凹凸ナリ。人家ハ都テ桜峠ノ山背ニ在リ。伊賀街道,西北ヨリ東南ニ通ス」る山間集落で(府地誌),北吉野の別称は,大和の大峯を鷲峰山に比し,当所一帯の山嶺を吉野山に比したものという(山城名跡巡行志)。村高は「正保村高帳」は367石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」で320石余。「享保村名帳」は328石余で,領主別内訳は禁裏増御料168石余・旗本長岡帯刀知行地160石余。なお「元禄村別領主帳」では幕府領と長岡帯刀知行地。平尾村から神童寺を経て,笠置・伊賀上野へ出る街道が伊賀街道であるが,神童寺辺のこの街道筋を特に神童寺越と呼び(山城名勝志・拾遺都名所図会),当村には旅人のための茶屋・旅宿などが設けられていた(山城名跡巡行志)。また,天保10年開業の寺子屋があり,玉竜元柳を師として生徒23人がいる(相楽郡誌)。明治元年京都府に所属。同8年進道小学校が当村に開かれた。「府地誌」によると戸数77・人数383,田26町8反余・畑6町9反余,物産では茶・蒟蒻【こんにやく】玉・柑子・栗・薪が主で,京都・伏見・奈良・神戸および近隣へ輸送していた。同22年高麗【こま】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7377185 |